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2012-01-07

歌舞伎-過剰なる記号の森 : 渡辺保

『歌舞伎―過剰なる記号の森』 渡辺保

 渡辺保氏と歌舞伎はしっぽりと深い仲なのである。歌舞伎は氏を虜にし、深い深いところにまで染みこんで、生々しく息づいている。氏が「口上」に言うとおり、氏が研究の対象とする歌舞伎は氏の内にあり、その『内なる歌舞伎』に目を凝らして本書は書かれている。

 自分の内へと向かうその視線が生む緊迫感は、著者による六代目歌右衛門論『女形の運命』にも感じたが、その視線の先で歌舞伎も艶やかなその身を一時やさしく任せるようで・・・ それはもう、密室で抱きあい濃密に目と目を見交わす二人。“ダンダンダンッ”「あなたたちっ! イヤラしいわよっ!」と心で叫んでみるが、私のヤキモチが割り込む隙間など無く・・・


 物語を宿らせる役者の身体、劇場という空間~それを形づくるシステム、そこを満たす音、戯曲に折り込まれる特徴的な場面・・・歌舞伎を構成するそれら一つ一つ~その精神、それがもたらすものについて語りながら、歌舞伎という芸能が立ち上がらせる世界に近づいていく。

 役者の身体、その動き、技術、戯曲、型、後見、ツケや柝、下座音楽など舞台上の音、道具、装置・・・すべてが、所謂リアルな事物、事象ではなく、見えないものを見せる~時間も空間も次元も自在に行き来する“うその中の真実”を見せるためにある。


 著者は自分の『内なる歌舞伎』に目を凝らすけれど、私はやはり私に見えている歌舞伎を見る。

 目には見えないはずの“何か”が“見える”。歌舞伎を観ていると稀にそういう瞬間を体験する。何がどう反応して“それ”が“見える”のか私には分らない。おそらくは役者の身体の中に、もしくは型といわれるものの中に、ものすごい圧力で圧縮された膨大な情報量が・・・瞬間、一気に弾け、目眩を感じるほどの勢いで渦を巻き流れ込んでくる。その瞬間の衝撃、陶酔感はいつまでも尾をひいて中毒のような症状をひきおこす。その感覚を味わいたくて劇場に足を運ぶものの、白塗りの顔での感情を顕わにした迫真の演技に、白けた気持ちにさせられることもままあり、そんな時には歌舞伎が持ち続けてきたらしい見えないものを見せるパワー・魔法は失われつつあるのかもしれないという不安、おそれを感じることもある。

 しかし、今現在の舞台に、江戸やそれぞれの時代の歌舞伎を見た人たちが目にしたであろう幻~超現実を出現させるために必要なのは、歌舞伎を生んだ『江戸の観念』や、明治、大正、昭和の名優たちの芸を単純に獲得、再現することではないのだろう。

 あまりに洗練され芸術的に磨きあげられたために、高尚なものとして受けとめられることが多いように思える、歌舞伎にたずさわる人たちの芸、技、その舞台。しかし、歌舞伎はせっかく研ぎ澄ましたその力を、どこに向かって振るうべきか、見失いかけているんじゃないだろうか。

 現実を超えた美しい嘘の中の真実に陶然としたい・・・そういう気持ちは現在の人たちの中にもある。その気持ちは、今、何に向けられているのか。歌舞伎はそこのところを狙いすましていかなくては。だって、歌舞伎って、もっと、もっと!もっと!!! 甘くて、荒々しくて、美しくて、危険なもののはず。すべてが奇跡的にかみあったときの歌舞伎の舞台って、3Dの映画よりも、ゲームや、マンガや、人気アーティストのライブよりも、よっぽど! よっぽど!!!


 渡辺氏には及ぶべくもないけれど、私だっていつか歌舞伎と深い仲になりたい。そのために、歌舞伎には私をもっとメロメロに翻弄して欲しいのよ~。


 

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2011-10-29

さかさまの幽霊―“視”の江戸文化論 : 服部幸雄

『さかさまの幽霊―“視”の江戸文化論』 服部幸雄

 歌舞伎『東海道四谷怪談』蛇山庵室の場のお岩の亡霊は、提灯の中から頭を下に逆さまの姿で現れたのだそうだ(昨年観た納涼歌舞伎の舞台ではお岩の亡霊は上に向かって飛んでいったように記憶しているが)。そういえば、以前読んだ江戸怪談の本の中には、逆立ちをした姿で現れ、通りかかる人たちに恨めしい無念の想いを語る幽霊の話や挿絵がいくつかあった。

 その“さかさまの幽霊”は、私にはわけのわからない不条理なものに思えたし、その図は怖ろしいというよりもむしろ珍妙という印象だったのだけども、江戸の人々にとっては“幽霊はさかさまに現れるもの”という道理があり、それは畏れ・怖れの感情と結びついていたという。

 “さかさまの幽霊”を生んだ文化的背景や人々の宗教的感性~そういうものを共有することが難しい現代の私たちには、もはや“さかさまの幽霊”を怖ろしいと思うことも難しく、不自然なことなのかもしれない。(昨年の納涼歌舞伎での『四谷怪談』をあまり“怖い”と思わなかったのはそういうことなのだろう。それならば、江戸の文化、感性を保存する古典としての歌舞伎もいいが、現代の感性で舞台と観客が緊密に結ばれた歌舞伎というのももっと真剣に貪欲に生み出されるべきだ。ターゲットを絞って小劇場での上演にするなど上演形態自体を変える必要もあるのかもしれない。)

 “さかさまの幽霊”は現代の私たちにとっては解りづらいものになってしまったかもしれないが、“逆さま”ということは元来、江戸の文化、宗教的事情を超えたさらに根源的な力を持つ。古くから、そして現代においても、“逆さま”という異常は人の不安、おそれ、陰の側の情動をかきたて“正常”に揺さぶりをかける。

 四代目鶴屋南北の描く世界を論じた「南北劇の構図」では、南北が芝居の中に仕掛けたそうした“逆さま”の破壊力・攻撃性について語られる。 

 その他、はっきりした上演の記録さえない『象引』が歌舞伎十八番に制定された経緯や、足元に宝を散らし、蓬髪に襤褸をまとったおじさん二人を描いた「和合神」の図像の流行についての考察など。多くの資料を解き、そこに秘められた江戸の文化・風俗・精神性を引き出して見せる手並みにはゾクゾクさせられた。




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2011-01-05

明治キワモノ歌舞伎 空飛ぶ五代目菊五郎 : 矢内賢二

『明治キワモノ歌舞伎 空飛ぶ五代目菊五郎』 矢内賢二

 キワモノ ~ 特定の時節・流行・出来事を当て込んで売り出されるもの。自然、その価値はごく短命に終わる。

 散切り頭、毒婦のゴシップ、異国人のサーカスに風船乗り、そして戦争・・・目まぐるしく変わる明治の世の出来事・事物を次から次へと取り込み、“本物そっくり”な、そして驚きにあふれた芝居に仕立てて観客の目に供す。

 ストーリーとしてはそれほど練られているわけでもなく、深いドラマ性があるわけでもない、そんなキワモノを、五代目菊五郎という天才役者の勘と身体は、事実の中に巧妙に嘘をすべり込ませ、嘘の中にふっと真実を立ち上がらせ、とびきり魅惑的な世界として完成させてしまう。

 嬉々としてキワモノ歌舞伎に取り組む五代目の姿を生き生きと描き出し、その天才的な芸の素晴らしさに思いをやる著者の筆に心地良く引き込まれ、見た事もない五代目への興味・憧れ・思慕をかきたてられる。

 歌舞伎は見世物の親玉として ~略~ 派手なキワモノを次々に送り出し、同時代の世間のありさまを鮮やかな手つきで切り取ってきた。

 「時代を超えられない」といってクサすのは、ちとお門違いではあるまいか。多くのお客に足を運ばせ、財布の中から木戸銭を払わせ、夢見心地で家に帰した。芸能としてはそれでひとまず大成功だ。


 下世話なエンターテイメントとしての歌舞伎を肯定するこのような言葉を、嬉しく、頼もしく読んだが、それが現代の歌舞伎に贈られる言葉ではなく、あまりにも浮かばれないまま忘れ去られている明治のキワモノ歌舞伎の成仏を願って手向けられた言葉であることは、悲しく、残念でもある。

 できることなら、キワモノとしての歌舞伎に、もう一度息を吹き返してほしい。伝統芸能でありながらキワモノであることは矛盾しないと思う。ぜひ、ぜひ、キワモノで私をワクワクさせてほしい。

 しかし、團菊の死後、明治のキワモノ歌舞伎が絶えてしまったように、歌舞伎という芸能は役者の身体、その個性に生き死にを握られているようなもので・・・キワモノの復活には、相当な力技を可能にする役者の存在が不可欠なんだろうなぁ。




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2010-10-09

歌舞伎のことば : 渡辺保

『歌舞伎のことば』 渡辺保

 何故か気持ちが乱れて、ちょっと泣きそう・・・なんである。

 私が、感じたい、解りたい、近づきたいと思っている歌舞伎の美しく妖しい姿を、夜空の月を水盤の水に写すように、著者はすっかり手に入れて、その水盤にたゆたい煌く月の姿を、私たちの前にも披露してくれる。

 指をのばせば触れることさえ出来そうな間近で揺れる月の姿に陶然としてしまうが、同時に、密かに想いを募らせてきた片思いの相手が、他の女の手に落ちてしっぽりといい感じなところを見せ付けられているような気持ちにもなって、くやしく、遣る瀬無く・・・ 渡辺保先生を相手に、泣いても、妬いても仕方ないのだが・・・。


 役者の身体をめぐる点から、劇場という空間、作劇の方法論、歌舞伎を支える思想の面から、「型」「つけ廻し」「偽せ宙」「花道」「綯い交ぜ」「やつし」「仁」「性根」「肚」「居どころ」「白化け」・・・歌舞伎の世界の言葉に込められた、またその言葉が体現する歌舞伎の精神、哲学、論理について語っていく。

 例えば「偽せ宙」 ~ 立廻りの中で、主役がスーッと体を前に出し、そこへ捕手が襲いかかるところを、スッと体を引込める。襲いかかった捕手は空を打つという動きを指す用語 ~ について。

 たとえば「市川団十郎」という役者がそこに立っている。搦みが「ヤアッ」とかかる。前の空間へ団十郎の身体が出る。その時、空間には、たとえば「曽我五郎」という身体が出る。しかし搦みが曽我五郎をつかまえようとした瞬間に五郎の体はなくて、搦みの手は空をつかむ。搦みは私たち観客の代表であり、曽我五郎の虚像は消える。しかし間違いなく残像がのこる。「五郎」の実像はなく、もとのところには「市川団十郎」が立っている。
 これほど役者と役の関係、それを見る観客の、三者の構造が隠喩的に語られる瞬間はないだろう。


 心の中でモヤモヤと感じていることが、言葉として明確に示される快感と、それを語るのが他人の言葉であることのもどかしさ。

 他人の水盤の月を指をくわえて見てるだけじゃなく、いつか私も自前の桶に月の姿を捕らえたい。 



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2010-08-25

妖術使いの物語 : 佐藤至子

『妖術使いの物語』  佐藤至子

 人外の術で敵達を翻弄し煙に巻く妖しのもの。盗賊、怪僧、陰陽師、怨霊、若衆にお姫様、異形の動物たち。主に江戸時代の文芸・娯楽作品に登場する、おどろおどろしくも魅力的な妖術使い・・・“「その筋のもの」が気にかかる”という人にとっては、これからさらなる深みにハマっていくための水先案内になるであろう一冊。

 隠形・飛行・分身・反魂、蝦蟇・鼠・蜘蛛・蝶々・・・それぞれに個性的な妖術使いたちと、その術が続々と紹介されているけれど、欲を言うなら、もう少しそれぞれの人物像等について掘り下げた解説が欲しいところ。限られた分量の中でなるべく多くのキャラクターを紹介するためだとは思うけれど、若干、キャラクターと技の羅列っぽくなっているのが残念。(最後に、妖術使いの物語が貴種流離譚の側面を持っていることや、妖術使いたちの異性装について等・・・妖術使いの人物造形にみられる特徴や、読者を魅了する諸要素について考察した一章が設けられてはいる。こういうトコ、もっと詳しく読みたかった。) 原典のあらすじ紹介や、せっかくの妖術発動の場面描写も、あまりにザックリ要約されていて味気ない。原典はきっと、因縁・怨念絡みあう過剰なまでにこってり濃厚なお話なんだろうけどなぁ。

 とは言え、豊富に収録された図版が、そのもの足りなさを十分に補ってくれる。ぎょろりと目を剥き、屋敷を押し潰す大蝦蟇。生首を咥えた大蜘蛛。振袖姿も艶やかな若衆を背に飛行する巨大な蝶。いやぁ~ こういう不気味なもの(もしくは禍々しいものと美しいものの組み合わせ)を見るとワクワクしてしまう生理ってどこからくるんだろう?

 大蝦蟇や巨大蝶って、歌舞伎の舞台でも見たことあるけど、絵で見る方が極彩色の悪夢のような“あり得ない感”満載でドキドキする。(昨年の「亀治郎の会」で上演された『忍夜恋曲者』の蝦蟇は見事だったがなぁ~)


 それにしても・・・ 画面を彩る美形キャラ。読者を魅了する不気味で愛嬌のある化け物や、ヒーローたちの超絶技。読み手のニーズ・嗜好に応えるために工夫を凝らす作者。熱狂する婦女子。人気に応えてどんどんと長大化する物語。絵草子と歌舞伎のメディアミックス。・・・現代の、あのマンガ雑誌をめぐる状況と、何やらよく似てる。



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2010-07-07

千本桜―花のない神話 : 渡辺保

『千本桜―花のない神話』 渡辺保

 「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」とともに歌舞伎三代名作に数えられる「義経千本桜」。「義経千本桜」の世界を貫くものとして、作者たちは、知盛、権太、狐忠信を主役とする各段のストーリーの背後に、日本人にとっての神話とも言える三つの伝説をしのばせていると著者は語る。その伝説を形づくる要素とは「判官贔屓(義経)」「天皇制」「狐」。そしてこの三つの伝説をつなぐ「桜」「吉野」「鮓」。これらのキーワードから神話劇としての「義経千本桜」の構造を読み解く。

 私には、著者が示したような「義経千本桜」の持つ神話的な物語の構造がのみこめた訳ではなく、むしろすっかり混乱してしまっているところだが、まぁ、いくつかの段をバラバラに一度ずつしか見たことのない私に(しかも私が見られるのは現代の舞台でしかない)、この狂言に秘められた謎を理解しろというのが無理な話だと一旦あきらめるしかない。

 もともとの原作である浄瑠璃は、太夫が語る物語という形態の為、文学性を保持できるが、歌舞伎にうつされると役者や観客の生理的に気持ち良い方へと流れていく傾向があるため、作者が意図していたものが変形されていたり伝わりにくくなっている部分もあるとは言うが、それ以前に私が戸惑ってしまうのは、この狂言を書き、見た江戸の人たちと、現代の私との距離感をどういうふうにとればいいのかということなのだ。

 例えば桜・・・「桜」と聞いて私が思い浮かべるのは群がり咲くソメイヨシノだが、吉野に咲くのは赤味がかった新芽と共に小さな白い花を咲かせる山桜だ。(私はその吉野の桜を見たことがない)考えてみれば当たり前のことなのだけど、この物語の背後に人々が見て、愛していたのはソメイヨシノではなくて山桜だということを改めて知らされると、それだけで少し江戸の人の心が遠くなってしまう。

 現代人のメンタリティと江戸人のメンタリティ、どこがどのくらい違うのか・・・その辺が私の中でもやもやしたままだから、著者が指摘した神話的なもの ~ 作者たちが、人の情に訴えるだけでなく、時代を批評する目も持った上で巧妙に織り込んだ物語 ~ が、江戸の人々にどのように作用したのか、そして現代の私にどのように作用するのかイメージできない。


 「あ~ 何だか解んね~!!!」とジタバタしているが、これまで舞台を観てちょびっと違和感を感じていたこと ~ 「安徳帝って割とサックリ知盛から義経に乗り換えちゃうのね~」とか、「弱いもの、滅びるものにあわれを感じる心情を判官贔屓というとは言いながら、対知盛戦では義経ってガッチリ勝者なんだよね~」とか ~ について、「なるほど、そういうことなのか」と気付かされる記述もあり、もう少し歌舞伎体験を積んでから改めて読み直してみなきゃいけないと思う。

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2010-02-20

絵で読む歌舞伎の歴史 : 服部幸雄

 中世の風流踊りから明治の天覧歌舞伎まで、歌舞伎という芸能の歴史の中で、転換点・分岐点となった出来事、その時代を象徴する人物を、屏風絵や浮世絵を添えてやさしく語った、著者の歌舞伎への愛あふれる読み物。

 当時へと思いを飛ばすような、穏やかな中にも熱のこもった語り口の心地良さもさることながら、江戸中期~後期の錦絵の見事なこと! 華やかな彩色、豪華絢爛な衣装に大道具、役者の個性的な顔貌に目を奪われるだけでなく、舞台の上の空気まで写し取ったかのような迫力に、しばし息が止まる。

 現在は舞台写真というものがあるけれど、写真集として出版されているものはともかく、劇場で売られている写真の多くは、この錦絵と比べていかにも味気ない。私が舞台上に見たものと写真に写っているものは違いすぎる。歌舞伎の空間には、写真には写らないものが沢山いる。

 江戸期、歌舞伎と浮世絵が切っても切れない関係にあったように、現代において歌舞伎と最も相性の良いメディアはマンガじゃないかと思うんだけどなぁ。松竹さん、思い切って筋書きの挿絵や芝居のポスターを人気マンガ家に描かせてみないかなぁ。

 優れたマンガ家ならば、あの歌舞伎の舞台上にある写真には写らないモノたちまで描いて見せてくれるのじゃないかと思うのだけど。

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2009-09-12

歌舞伎 型の魅力 : 渡辺保

 現代演劇は苦手な私だが(現代演劇の舞台は片手で足りるほどしか見ていないので、食わず嫌いであることは否めないが)、どうした訳か歌舞伎は大好きなのだ。そして、私の歌舞伎の楽しみ方は、どうも「キャラ萌え」であるらしい。ドラマの中で役が動くんじゃなくて、ドラマは役にくっついてくるもん位に思っているし、舞台でドラマを演じるモノは人格を持つ個人であるよりも、個人としての形を持たないもの~様々な属性の集積~(それをキャラクターと呼んでよいのかどうか解らないのだが・・・)であってくれた方がありがたい。

 現代演劇嫌いでキャラ萌え気質の私が、なぜ歌舞伎にどっぷり魅せられてしまうのか? そこに歌舞伎の「型」というものが関係しているのではないかという気が何となくしていたのだ。

「型」とは

 その役の扮装から、小道具、大道具(舞台装置)の指定、テキスト・レジ(上演台本の作成)に至るまで。あるいは役者の動きの段取りから、その役の解釈に至るまで。要するにその役を表現するためのシステム全体をいう。



 役者の身体性に依るところが多く、役者の「仁」というものが言われる歌舞伎において、しかしその舞台上に、現代演劇に時々感じたような役者の人間としての生臭さを感じたことがない。

 役者の身体性を含めた個性、表現を「型」として凝縮することで、リアルな感情と人格を持った人間ではなく、とびきり魅力的な、まるで生きているようなお人形が舞台の上に現れる。人形と言ったってただの人形じゃない。魂を持った生き人形。「型」によって現れるのは、人格・個性・感情などではなく、魂だと思うのだ。

 歌舞伎の舞台の上にいるのは、例えば「合邦」なら玉手御前という個人としての女ではなく、「玉手御前」という魂。歌舞伎役者はその魂を入れる人形。

 歌舞伎役者は自分自身を人形として使う人形使いだ。いつも贔屓の役者にきゃあきゃあ言っている私だが、厳密に言うと私は彼等自身が好きというより、彼らの操る人形が好きなのだ。

 では、一個の人間でなく「人形(魂)」が演じるドラマって何なのか? っていうことは、まだよく解らない。これからゆっくり考えてみようと思う。


 本書は「陣屋」の熊谷、「御殿」の政岡、「十種香」の八重垣姫、「五・六段目」の勘平、「寺子屋」の松王丸、「千本桜」のいがみの権太、「合邦」の玉手御前・・・他、様々な役の型のバリエーションを収集、記録、紹介したもの。“「型」によって舞台上に何が起こるのか”を言葉にして教えて欲しかった私の期待とは少々ずれたが、読んでいる間中、脳みそがゴゥンゴゥンと音を立てて回転した。(オーバーヒートで暴走気味かも) 何故歌舞伎が好きなのか ~ 頭の中で混沌としていたものが、おかげで少しずつ形を成し始めた。

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2009-08-05

明治劇談 ランプの下にて : 岡本綺堂

 芝居好きの少年として、新聞社の劇評記者として、劇作家として、明治の歌舞伎を見てきた綺堂翁の思い出話。

 表の通り、裏の露地からは長唄や常磐津の稽古が聞こえ、近所の男たちは集まっては素人芝居をしている。そんな少年時代の風景や、大人の腰巾着で、または小遣いをやりくりして見た歌舞伎の舞台。朝暗いうちに起きて、歩いて劇場に向かう長い道々~草深い野っぱらが広がり、雨降りにはぬかるみだらけになる東京の町。劇場で会った団十郎や菊五郎、守田勘弥らのことなど。

 どれも綺堂翁の身の回りにあった日常であり、実際にそれを見聞きしていた生の空気感が感じられる一方で、九代目団十郎が生きて喋って演じているなんて、私の感覚ではフィクションとしか思えない不思議な非現実感。

 ずっと昔の、今となっては夢とも現実とも分かちがたくなったお話は、ぼぅっと灯ったランプの下の風情、もしくは、四季折々の陽射しと風が心地良い座敷で~春はうららかに薫る風、夏は団扇を使いながら、秋は落ちかける夕日に、冬はキリっと冷たい空気と冴えた光~懐かしい物語に耳を傾けている気分。

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2009-06-20

夢みるちから - スーパー歌舞伎という未来 : 横内謙介・市川猿之助

横内 : 動かない。つまり敢えて表現しないことによって得るものは何なのでしょう?

猿之助 : 究極の存在感と美しさです。


 痺れる!

 演出家と脚本家としてスーパー歌舞伎「八犬伝」「カグヤ」「新・三国志」を生み出した市川猿之助丈と横内謙介氏の対談。上記は、振幅の激しい動と静 ~ 一見荒唐無稽にしか見えない誇張された歌舞伎表現の中にあるリアルについて語る中で出てきた、静の演技・・・所謂「ハラ」についての言葉。

 はっきりと言い切った猿之助の言葉に、横内氏も一瞬打たれたようだが、私の体にも電気が走った。

 動も静も、究極まで誇張された、または削ぎ落とされた歌舞伎の動きには一つの無駄もない。 究極の動作で究極のものを伝えるために、歌舞伎役者の体にプログラミングされている「型」の力・凄み ・・・ それは決して形骸化した様式であるはずがない。

 横内氏は歌舞伎役者と仕事をすることで、その凄みをひしひしと感じられたようだ。

決まることで、何かが見えてしまう。それはもう意味とか理屈を超えている。


 そう! 歌舞伎を見ていると、ある瞬間 本当に! 「何か」が! 「見えてしまう」! これは、私自身劇場で何度か体験した。 


 スーパー歌舞伎の創造は「型やぶり」であって「型なし」ではないと言う。歌舞伎の財産はしっかりと生かされている。スーパー歌舞伎製作のノウハウについては、「スーパー歌舞伎―ものづくりノート」でも、猿之助丈によってたっぷりと語られていたが、ここでは、現代演劇の考え方をベースに持つ横内氏との対談の形をとることで、歌舞伎が蓄積し、築いてきた哲学がくっきりと浮き彫りになる。

 歌舞伎役者の肉体を持ち、その肉体で理解した歌舞伎の哲学・方法論を、歌舞伎以外の言葉で語る知性を持った猿之助は最強だ。

 猿之助が「創造者」として歌舞伎の歴史に名前を残すことは間違いない。が、これから先のことを思った時、やはり気がかりなのは、猿之助を超えて行く人がまだ現れていないように思えること。

 私が今最も期待しているのは、猿之助劇団に学び、そこから飛び立っていった亀治郎と、昨年の「ヤマトタケル」再演で、師匠とは全く違う、そしてストーリー自体がリニューアルしたかと思うほどに新しく、かつ飛びきり魅力的なタケルを生み出してみせた段治郎なのだけど・・・。

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