2010-10-23

どうして書くの? ― 穂村弘対談集

 穂村弘 × 高橋源一郎、長嶋有、中島たい子、一青窈、竹西寛子、山崎ナオコーラ、川上弘美

 今の人間同士は、それが誰と誰であろうと、何というか実際に会う前から噛み合ってるんじゃないか。

 根本的に世界が耕されているというか、生きている場自体ができあがってしまっている、と思うのだ。

 本書は言葉を書く人間同志の「書くこと」についての対談集である。

 前述の世界と人間の変化をたぶん全員がどこかで意識しながら、「書くこと」について真っ直ぐにしつこく語り合った記録だ。



 どうして書くのか? 穂村氏においては「生き延びる」~ただ現実の中で生活する~のではなく「生きる」ということが繰り返し問題にされている。(「生き延びる」と「生きる」という感覚については、『整形前夜』の中でも語られているし、『短歌という爆弾』には「我々は『大過なく生き延びるため』にこの世に生まれて来たわけではない。」という記述がある。)


 明治期や戦後の大歌人たちの発する言葉の強さ、その言葉を生む内面の濃さは、「近代の始まり」あるいは「戦争」という時代における世界の重量、圧力と対応したものなのか。だとすれば、「日本中がコンビニの中みたいになった現象」の中で生きる自分たちが発する言葉は、かの大歌人たちの言葉に匹敵する強さを持ち得るか? 太刀打ちできるわけが無いという怖れと、言葉で世界と相対している者のプライドと・・・。

 言葉によって世界と関係する、もしくは言葉によって世界を押し返す。世界の中で「生き延びる」のではなく「生きる」ということ。


 「書く」人たちの言葉を「読む」者として目にしながら思うのだが・・・ 「生きる」ために発せられる言葉の強さよりも、「生き延びる」ための言葉に込められた誠実さの方が私には好ましい。

 一青窈さんとの対談の中で、「何かを伝える」ということを「水を飲ませる」という行為に例えて語り合うくだりがある。誰かに水を飲ませようとする時、水をコップに入れて渡すというのは誰にとっても一番抵抗の無い言わば「生き延びる」ための言葉であり、もっと強い何か~「生きる」ということ~を望むことから、例えばスポンジに含ませた水を口元にたらすとか、口うつしで水を飲ませるという行為~「生きる」ための言葉~が生まれる、と言うのだが・・・

 コップの無い場所で、もしくはコップというものの存在を知らない人から(どうしてもコップを粉々に握りつぶしてしまうという人もいるかもしれない)、口うつしやスポンジに含ませて与えられた水には間違いなく大変な価値がある。しかし・・・コップの存在と使い方を知りながら口うつしやスポンジで水を飲ませようとする行為は、どうしてもその突飛さ、身勝手さが鼻について、コップに注いだ水を差し出す誠実さ(コップの中で水が少し居心地悪そうにしていたとしても)よりも価値のあるものだとは思えない。

 それに、水を口うつしやスポンジに含ませて飲ませる行為は、コップが存在する世界でこそ「生きる」ための言葉だが、コップが存在しない世界でのそれは「生き延びる」ための言葉だ。「生き延びる」ための言葉を侮ってはいけない。

 ああ、しかし・・・だからこそ穂村氏は問うているのか。どこに行っても“コップの存在しない場所”など無い「日本中がコンビニの中みたいになった」世界 ~「生き延びる」ための言葉が無くても「生き延びる」ことができる世界~ で、自分たちが発する言葉とは何なのか? どういうものであり得るのかと。

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