2013-09-28

小説を書く猫 : 中山可穂

『小説を書く猫』 中山可穂

 中山可穂氏の小説に初めて出会ったのは、とある大学病院の売店でのことだった。夫の入院が思っていたよりも長引くことになり、付添いの合間に何か読もうと、売店の本棚に並んだ数少ない文庫本の中から手に取ったのだ。ナイフを手に立つ、あばらが浮くほどに痩せた裸の少女・・・その表紙を見たときはハッと胸を衝かれたが、同時に“過剰な自意識を押し付けてくるような小説だったら嫌だなぁ”という思いもあった。

 しかし、その心配は杞憂に終わった。『それ(ミチルがレズビアンであるということ)は彼女の属性のひとつの項目に過ぎず、なんら特別なこととして描いてはいない。』と、このエッセイの中にもある通り、『猫背の王子』の主人公・王寺ミチルは、自分自身と自分をとりまく物事を非常にフラットに受け止め、真摯に、ストイックに自分の選んだ道を進もうとする女性だった。それだけに、ミチルが、激しすぎる情熱に自分の身を傷つけ、どうしようもない孤独に苛まれながら、芝居を、恋人を求める切実さは、いや増して見え、この愛しくて美しい主人公・王寺ミチルを生んだ、中山可穂という作家が好きになった。

 中山可穂氏も王寺ミチルのように、ストイックだけど激情家で、多情だけど一途で、強くてきれいで凛々しい方なのであろうとイメージしている。それと同時に、このエッセイ集からは、おなかを空かせて不安げな、不機嫌そうな顔をしていたり、地団駄を踏んで何事かを訴える小さな女の子の姿が見えるような気がする。


 自分の身を削り、絞り出すように小説を書き、生き、恋するというのはどれほどの愛情を、エネルギーを必要とするのだろうか? 恋人の愛情がいつもそばにあるというわけにはいかないのかもしれない。せめて、いつも美味しいものを食べていて欲しいなぁ・・・と思う。




FC2 Blog Ranking
スポンサーサイト

theme : 読書メモ
genre : 本・雑誌

2013-09-21

薔薇の名前 : ウンベルト・エーコ

『薔薇の名前』 ウンベルト・エーコ

 映画『薔薇の名前』が公開されたのは、私が高校生の頃だったろうと思う。スチル写真で見た、中世の修道僧を演じるショーン・コネリーが素敵で、“いつか『薔薇の名前』を読もう。”と、ず~っと思い続けてきたのだ。(なぜか映画を見ようとは思わなかった。)

 しかし、そもそも翻訳ものが苦手であったのと、『薔薇の名前』が衒学的で難解な小説と言われているらしいということもあって、チャレンジする勇気がないまま今まできてしまった。

 で、20年以上敬遠してきた『薔薇の名前』に、意を決してというか、蛮勇をふるってというか挑戦をしたのだが、「手記だ、当然のことながら」と記された冒頭部分~中世の修道僧アドソの手記の写本を入手し、それを訳出し公開するに至った経緯を語る、本編の前置きとでもいう部分を読んでいる時点で、「無理だ・・・」と心が折れそうになった。作者が何を語ろうとしているのかまるっきり理解できない。“いったい何を言ってんだ、この人は?”

 “やはり読むのをあきらめようか”と思う心を励まし「プロローグ」を読んでまた挫けそうになる。世界史をちゃんと勉強したことがないので、宗教的背景はもちろん歴史的背景がまったくわからない。「神聖ローマ帝国って何?」というレベルである。

 半ば投げやりな気持ちで、それでも読み進める。すると・・・、異端審問に宗教的な図像たち・・・雰囲気ありすぎな中世の僧院を舞台に繰り広げられる書物をめぐるミステリーとして面白く読めるのだ。たとえ、ウィリアムたちの会話の中で話題にされ、参照される数々の書物がどういうものなのだか知らなくても・・・。

 写字室で一つずつ筆写される文字、施される細密画。迷宮のような文書館に秘蔵される書物への、学僧たちの激しい好奇心、知への欲望。何事かを記した書物が、あるいは書物に記された何事かが、人を動かし、狂わす。こんなにも深く書物に耽溺する人々を羨ましくも思いながら、僧院に起こる惨劇を、謎を解こうと奮闘するウィリアムとアドソの姿を眺め・・・

 読み終えて本を閉じ、“ああ、皆、行ってしまった。”という寂寥感の中に取り残されている自分に気づく。


 今は、『薔薇の名前』に惨敗した心を、ショーン・コネリー演じるバスカヴィルのウィリアムの素敵な姿に慰められたいと思う。秘密の地下通路を、文書館の迷宮を歩き、推理するショーン・コネリーの姿を見たい。・・・我が家にDVDプレーヤーがあるものならね。(そう、我が家にはDVDプレイヤーが無い。)




FC2 Blog Ranking

theme : 読書メモ
genre : 本・雑誌

2013-09-14

ブッダはなぜ女嫌いになったのか : 丘山万里子

『ブッダはなぜ女嫌いになったのか』 丘山万里子

 「道成寺もの」への興味から、何年か前に「蛇になる女」関連の本をいくつか読んだときに、「蛇になる女」のルーツが仏教にあることを知り、仏教の女性に対する嫌悪の激しさ、極端さに困惑した。

 著者は音楽評論を専門とし、現代音楽を理解する上で必要な東洋思想を学ぶうちに、生まれたばかりの息子に「ラーフラ」=「邪魔者」と名付け出奔したブッダの姿に素朴な疑問を抱いたという。

 原典を読み込み、解釈し、作品を再創造するという音楽演奏の手法に倣って、著者は原始仏教経典に残された痕跡から、出家前…王宮でのシッダッタの青年期を、その身近にあった三人の女性 ~ シッダッタの誕生後間もなく亡くなった「まぼろしの母」マーヤー、マーヤーの妹であり亡き母の面影を写す養母マハーパジャーパティー、シッダッタに捨てられた妻ヤショーダラー ~ との関係を中心に考察する。

 あくまでもそれが推論であることを自覚しつつ、知的探求の領域を逸脱しないよう抑制をきかせながらも、仏典に記された言葉の中に、それを語ったブッダという「人」を見つけ出そうとする著者の眼差し、大胆にめぐらされる想像力によって語られる、愛に渇き、愛に囚われ、まさに「蛇になる女」たちの間で愛に苦しむ若きシッダッタの姿。

 ひとは、例えば「愛」などという抽象的なものに漠然と悩んだりはしない。具体的な誰か、このひととの愛にこそ、じりじりと悩むのだ。
 若きシッダッタが囚われた愛執や愛欲も、自分ではない誰かと誰かの関係や、そのさまを他人事として見て、愛執の苦しみとはこういうものか、などと了解したのではなかろう。明らかに自分と誰かとのどうしようもないかかわりの中で実感したことのはずだ。


 仏教が宗教として確立されている今では、どうしてもそれが説く抽象的思考にとらわれてしまいがちだが、このような著者の視点、言葉は、仏教という世界的宗教のルーツが一人の生身の人間であったことに気づかせてくれる。

FC2 Blog Ranking

theme : 読書メモ
genre : 本・雑誌

2013-09-07

つぎはぎ仏教入門 : 呉智英

『つぎはぎ仏教入門』 呉智英

 仏教はどれほど深く、どれほど先鋭なものなのか。それを知るための第一歩に本書がなることを願っておきたい。


 世俗の要求に応えるうちに釈迦の教えとは随分かけはなれたものになった仏教。そのように変質してしまった仏教をこそ仏教として信じている人々。そのような仏教のありかたをきちんと批判できない評論家や社会。そういう状況にツッコミを入れ、仏教をとりまく様々な誤解を明らかにし、仏教とは何かを改めて問う~そういう意味での「入門書」。


 我が子にラーフラ=障り・束縛という名までつけて、家族を捨て家を出る釈迦の姿はショッキングだ。そのあまりの孤独、苦悩の深さ、そしてその苦悩から去るためにとった行動の妥協のなさを思うと、金縛りにあったような心地がする。

それ(家族なるもの)をかくも強く拒む身勝手さは、常識的な社会倫理を超えており、それ故にこそ人々を圧倒する不条理な魅力がある。


 仏教はそもそも穏健な社会とは相容れない思想だからこそ、社会にあっては救われない苦悩を救う力がある。

 でも、社会人であり、家族を捨てることもできない私は、どのように仏教に向きあえば良いのだろう? ・・・なんて思うと、みうらじゅんさんはやはり、現代において実に素朴に仏教の思想を実践している方なんじゃないかと思うのだ。


みうらじゅん『マイ仏教』感想…http://neconohitai.blog71.fc2.com/blog-entry-554.html




FC2 Blog Ranking

theme : 読書メモ
genre : 本・雑誌

プロフィール

やぶからねこ

Author:やぶからねこ

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

ブログランキング
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村 漫画ブログへ
カテゴリー
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
検索フォーム
カレンダー
08 | 2013/09 | 10
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 - - - - -
魂に喰い込んでます
月別アーカイブ
Powered By FC2ブログ

Powered By FC2ブログ
ブログやるならFC2ブログ