2011-07-30

邪悪なものの鎮め方 : 内田樹

『邪悪なものの鎮め方』 内田樹

 読んだのはもう数ヶ月前のことである。この本に思わず手をのばしちゃった時の私は、日々「暴力的な正しさ」とでもいうようなものにさらされいる気分だった。

 「“女の幸せは結婚!”と頑なに信じている親戚から持ち込まれる見合い話」とか、「平和の為の爆撃」だとか、そのレベルは色々だけど、「暴力的な正義」が自分に向けられ、その「正しさ」に自分が否定される毎に、心の中にもくもくと邪悪な思いが湧き出てくるのを感じて、“こりゃ、ヤバいな”と思っていた。

 そんな時に目にとまったタイトルがあまりにスバリだったし、以前どこかで読んだ内田樹氏の文章が“いい感じ”だったという記憶があったので、すがりつくように手に取った。


 ・「それ」とかかわるときに、私たちの常識的な理非の判断や、生活者としての倫理が無効になる。
 ・だからといって何もしないで手をつかねていれば必ず「災厄」が起こる。

 「邪悪なもの」とはそういうものであるとし、そういうものから生き残るために著者が見つけた答えは「ディセンシー(礼儀正しさ)」と、「身体感度の高さ」と、「オープンマインド」であると「まえがき」には書かれている。

 本文には、私たちが「邪悪なもの」に遭遇したときに役に立ちそうなお話がパラパラと収められている。日常のお話し、社会的なお話し、科学的なお話し、宗教的なお話し、霊的なお話し。現在から過去~「邪悪なもの」が出現した(する)現場での出来事や、それに対する先人たちの智慧、人間に備えられた能力について。

 大人と子供の問題、ダウンサイジングという考え方、霊的なものとのつきあい方・・・著者の「常識的」な発言にとても癒される。

「そんなの常識だろ」というのは私たちがものごとを判断する上で、たいへんたいせつな知性の働きである。


 常識は「真理」を名乗ることができない。常識は「原理」になることができない。常識は「汎通的妥当性」を要求することができない。これら無数の「できない」が常識の信頼性を担保している。人は決して常識の名において戦争を始めたり、テロを命じたり、法悦境に入ったり、詩的熱狂を享受したりすることができない。
 自分の確信に確信が持てないからである。




 職場では少し前から、「『そんなの常識』と言っては(思っては)いけない。『常識』は当てにならないし、そういう言動は、常識の無い人を傷つけるから。」なんてことが言われていて、“何か嫌な世の中になってきたなぁ・・・”と思っていたところだけに、著者のように常識の価値をきちんと主張し、崩れかけた常識を補修しようとする人の存在は心強い。


 常識で丸く収まる事態には常識で当たる穏健さと、場合によっては常識を超えた振る舞いのできる融通無碍な強さ・・・そういうものを身につけて生きていたい。

・・・でも、

「邪悪なもの」をめぐる物語は古来無数に存在します。そのどれもが「どうしていいかわからないときに、正しい選択をした」主人公が生き延びた話です。


 「邪悪」から生き延びる智慧はどこかにある、と心を強くする一方で、生き残るのは「主人公」とごく一部の仲間だけで、雑魚キャラはどんな選択をしたとしても早々に死んじゃうんじゃないかなぁ・・・とどこかで思ってるっていうのは・・・悲観的すぎるんだろうか? それとも怠慢?




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2011-07-23

弁慶はなぜ勧進帳をよむのか―日本の精神文化と仏教 : 小峰彌彦

『弁慶はなぜ勧進帳をよむのか―日本の精神文化と仏教』 小峰彌彦

 歌舞伎と仏教・・・興味をひかれる2つが並んだタイトルに思わず飛びついたのだけど、これは・・・ちょっと残念だった。

 「勧進帳」「道成寺」「卒塔婆小町」といった、歌舞伎や能で良く知られた演目を題材に、芸能の中に盛り込まれた仏教的なものを明かにし、そこに見える日本人の精神文化を探るという内容なのだが、

 伝統芸能=日本人の代表的文化=日本人の心を表すもの
   ↓
 芸能の中には仏教の諸宗派、また道教、陰陽道などのモチーフが混ざり合って存在している
   ↓
 日本人の精神文化には仏教を中心として多様な宗教を習合する宗教的寛容性が根付いている

 と説くには、論考が不十分であるように思える。だって、著者が本書でやっているのは、芸能の中に見られる仏教的要素を指摘、解説することだけだもの。劇中に仏教的なものを盛り込んだ作者の意図、演じられるドラマの文脈の中でその仏教的なものがどのように機能しているのか、その芸能を観る人たちにどのように受容されたのか・・・そのあたりについては「他に優れた論考がある」と言うばかりで、著者自身の考えはほとんど書かれていない。著者が語っているのは『弁慶はなぜ勧進帳をよむのか』ではなくて『弁慶は山伏の扮装をして勧進帳を読む』ということだけなのではないか?

 仏教的なものが、歌舞伎や能といった芸能の衣装、台詞、作劇に取り入れられていることを指摘するだけでは、土産物屋や飲食店で見かける「テレビ(雑誌)で紹介されました!」って張り紙の文句とあまり変わらないような気がするんだけども・・・。




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2011-07-16

伊東忠太動物園 : 藤森照信・増田彰久・伊東忠太

『伊東忠太動物園』 藤森照信・増田彰久・伊東忠太

 学生時代、何度か一橋大学の兼松講堂を利用させて頂く機会があった。ほぼ1日中を講堂内で過ごし、最初は何も感じなかったのだけど、ある時、建物内の階段で、ふと視界の隅に変な鳥がいる気がして“ギョッ”と振り返った。細部はもうかなり曖昧で、私の中で半ば以上ファンタジー化してしまっている記憶なのだが、あの“ギョッ”は忘れられない。それが、伊東忠太の怪物との出会いだった。

 一度気付いてみると、兼松講堂のあちこちには奇怪な姿の動物がとり付いている。“うぁっ クリーチャー! クリーチャーがおる。兼松講堂、スゲぇっ”・・・身近にこんな異次元があったことに、ふるふると異様な悦びと興奮を覚えてしまった。

 その後、兼松講堂やその怪物たちが伊東忠太の設計によるものだと知って(自分で調べた覚えは無く、どういう経緯で伊東忠太のことを知ったのか、我ながら謎なのだが)、歌舞伎見物に上京した折に、築地本願寺へも怪物探しに行ったのだけれど、その寺院としてはあまりに風変わりな姿にも、そこに棲む動物や幻獣にも、兼松講堂で感じたほどの衝撃と悦びは無かった。

 やはり“怪”には、無防備な日常の中で遭遇してこそ・・・。

 
 ところで、伊東忠太の怪物の写真を多数収めたこの『伊東忠太動物園』~著者の語り口が妙に可笑しい。靖国神社境内の遊就館について、伊東忠太が直接設計をしたものでない可能性を指摘しての言葉。

 そのせいか、伊東ならではの図像が見られないし、また、鬼面がついてはいるものの、こうしたこれ見よがせは彼の好みではないし、鬼面のタッチも伊東好みとはいいがたい。伊東はもっとクリクリモコモコした形が好きなのである。


 大の大人の発言にしては、妙に幼児的というか駄々っ子的というか(笑)。妄想家・伊東忠太に著者自身も多くの妄想を託している・・・というか、“この人は、伊東忠太を見ているとワクワクしてたまんないんだろうな”と思わせるフシが言葉の端々に見えて何だか可笑しい。

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2011-07-09

絶叫委員会 : 穂村弘

『絶叫委員会』 穂村弘

 思わぬ一言が、普段何の疑問も不都合も感じていない日常の壁を突き抜け、世界が混沌とした底なしの広がりを隠していることを暴いてしまうことがある。例えば、中国製ねずみ花火の説明書き。

この花火はぐろぐろ回ります


 そんな、日常の割れ目、世界の深淵を垣間見せる言葉に出会っては、ときめいたり、恐怖したりで“うわぁ~っ”ってなっている穂村氏を見て、私も違う意味で“うわぁ~っ”と思ってしまう。

 何と言うか・・・日常の中に稀に降ってくる、そういう奇跡的な言葉に対する穂村氏の憧れは強すぎる。その憧れの強さは、「日常」とは次元を異にする「世界」への畏怖ばかりじゃなく、“自分の言葉で世界への入口をこじ開けたい”という欲求の表れでもあって、そんな怖い欲求を持てる人の心の強度に、私は“うわぁ~”ってなってしまうのだ。


 本書の中で、穂村氏は「言葉」によって「日常」にできた割れ目から「世界」が、予想外に可愛かったり、怖かったり、理不尽だったりする姿をのぞかかせる瞬間をたくさん書いているが、先日読んだ保坂和志氏の『世界を肯定する哲学』も、「世界」と「私」のありようについて「言葉」で考察する内容であった。

 保坂氏も、穂村氏も、「世界」と「私」、そして「言葉」にこだわっている。「言葉」の体系を、見る、聞く、感じる、思考する、伝える、等々々々・・・様々な演算を行うためのOSのようなものとして意識されているところも、お二人に共通しているように見える。さらに、保坂氏にとっても、穂村氏にとっても、「世界のリアリティ」に触れる感覚というのは、「日常」を曖昧に生きている中では感じることのない、「日常」もしくは「私」と「世界」との間にある「ズレ」に気付くことでもたらされている。ただ、その「ズレ」との出会い方には、お二人それぞれの個性があるようで・・・。

 保坂氏は、『中学二年の夏の終わり、部屋の窓を開けると外の風が予想以上に冷たかった。』というご自身の体験・・・その時身体に感じ、心に思った、通常は言葉になる以前の様々なことを出来る限り精密に言語化する~思考するための「言葉」の精度をジリジリと上げていくという方法で、「私」と「世界」のズレを検出してみせる。

 穂村氏は、吉行淳之介の『おい、驚いたよ。俺ん家にもうひとつ部屋があったんだ』という言葉や、池の側の看板の『噛みつきますから白鳥に近づかないで下さい』によって、突如顕わになる「日常」の割れ目、「世界」の歪みにわなわなしている。「天使的」、言葉の「翼」、「飛翔」・・・何かを一気に飛び越える「言葉」にわなないている。


 

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2011-07-02

世界を肯定する哲学 : 保坂和志

『世界を肯定する哲学』 保坂和志

 自分自身でも認識できない部分を含む「私」という存在は何なのか? また、「私」と「世界」の関係とは?

・・・

 例えばの話・・・「色即是空 空即是色」の意味するところがどういうことなのか、「色」や「空」とは何なのか解るか?と問われたとして、私は“それ”を体感したことはないし、ましてや言葉で“それ”を説明するなんてとてもできるとは思えない。“それ”を考えるための「言葉」すら見つけられないせいで、“それ”は到底到達し得ない境地、理解不能な概念なのだと思ってしまうのだけど、・・・でも、自分の中のどこかで・・・ほんの微かに“それ”を知っているという気もしている。

 それと同様に、保坂氏が語ろうとしていることの一つ一つを「理解した」という感覚は、何度か読み返した後でも全くと言っていいほど得られていないのだけど、申し訳ないくらいに漠然と「知ってる」・・・ような気がする部分もある。

 本書が難解に思えるのは、言語化することが難しいはずの思考までが、書物である以上「言葉」で記されざるを得ないためと、私がそういう「思考」を「意識」することに関してあまりに無能というか・・・だらしないためだろう。

 余談だけども、人間の認識のしくみとか、その限界について語る著者の言葉には、「怪しいもの」について語る京極夏彦氏の言葉を思わせるものもあり、そこだけはちょっと馴染みの感覚(と言うほど馴染みではないような気もするが;;)に出会った気分になる。

 宇宙の始まりと終わりについて、「思考」と「視覚」の問題、夢を見る時の視点について、人が持つ「記憶」について、「言語」というシステムについて、「肉体」と「精神」について・・・『雑然たる提示部』『迂遠な基礎作業』とご自身が言うとおり、保坂氏の言葉の進め方は“すっきりした理解”にまっすぐ導いてくれるものではないようだけど、その難解とも感じられる遠回りにつられて、長らく私の中で使われることのなかった回路がわずかずつ掘り起こされ、遠回りする言葉を呼び水に、滞っていた流れが回路の中をチロチロと通いはじめるのをどこかに感じている。




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