2011-02-26

天国旅行 : 三浦しをん

『天国旅行』 三浦しをん

 「心中」をテーマとする短編集。

 首吊りに失敗した男と、それを見ていた男。長い人生の間、何度か共に死ぬことを考えたことのある妻へ夫が遺す遺書。何十年も先に逝った二人の夫の死をなぞるように、静かな死を迎えたおばあちゃん。夢に見る心中女の姿に巻き込まれていく女。自殺した男子高校生と、その死の真相を追う二人の少女。恋人の幽霊と暮らす青年。一家心中の生き残りの男の思い。

 たとえ時間や、空間や、次元さえもが隔てられていたとしても、誰かの「死」が他の誰かの「死」(もしくは「生」)とつながりあうということ。

 
 様々な「心中」のヴァリエーションの中で描かれる人の思い。

 絶望、愛、安堵、恐怖、疑惑、依存、不安、諦め、憎悪、希望・・・「死」と「死」の、あるいは「死」と「生」の結び目にあった思いとは何なのか。




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2011-02-23

私だけの仏教 ~あなただけの仏教入門 : 玄侑宗久

『私だけの仏教-あなただけの仏教入門』 玄侑宗久

 釈尊以来、先人たちによって長い時間をかけて蓄積されてきた、生きる智慧、真理を悟り何ものにも囚われない自由な精神に到るための膨大な方法論とツール。一生かかっても到底学びきれるものではない、この膨大な仏教の財産の中から、あくまでも“私”が“実践”するのに適した「私だけの仏教」を見つけ出すための、現代の社会生活の中で“実践する”仏教への手引書。

 生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦 ・・・ 普通に生活していれば普通に直面する辛くて苦しくて怖いこと。そこから解放される方法があるなら、そりゃあ解放されたいですよ。

 「私だけの仏教」をアレンジするもととなる大量の素材についての解説 ~各宗派の特徴的な思想、「大乗」「小乗」「顕教」「密教」「自力」「他力」という言葉の語るところ~ や、「私だけの仏教」を作り、実践する際に必ず自分に課すべき基本的な戒め、心得ておくべき態度についてのお話に耳を傾けながら思うのだけど・・・

「観音様から学びたいのは、この方があらゆることを『遊び』としてなさっている、ということだ。~略~『遊び』というからには、ご自分が楽しんでいるということだろう。」

 「どうせ食べなければいけないなら、せめてマズイとは思わないで食べ終えたい。」


 これって、まるでみうらじゅんさんの本のタイトルじゃない?! 『親孝行プレイ』に、『ぜったい好きになってやる!』ってね。


 「法(真理)」「慈悲」「智慧」など、仏教において大切だと考えられていることは人間関係の「和」の中にしか生まれないものであるから、「『私だけの仏教』の目指すものも、決して『孤独な仏教』などではない」。そのことをしっかり心して欲しいという著者の言葉には、「私だけの」という文句に人間関係からの逃避の可能性をちょっと期待してた私は、ガツンと釘をさされた気がしてしおれてしまっていたのだが、そこにまた、みうらじゅんさんが、先を歩いていく姿を見せてくれたのだ。

 辛いことも、嫌なことも「そこがいいんじゃない!」(『さよなら私』)と唱えながら雑多な人間関係や面倒事の中にとびこんでいこうとするみうらじゅんさんは、何と立派な仏教者なんだろう。

 「私だけの仏教」はゆっくり時間をかけてつくればいい。とりあえずは、私も「そこがいいんじゃない!」を唱えながら行こうと思う。

 「そこがいいんじゃない!」を繰り返し唱えたって、きっとウザい人はウザいし、嫌なことは嫌だし、怖いもんは怖い。すべてから自由な心なんて程遠い。

 それでも・・・

 『おそらく、不可能なことを目指す人間の姿は、美しいのである。』という、思わずよろめきたくなる著者のキメ台詞が、私の旅立ちを促してくれるのである。 


 

 

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2011-02-19

梅原猛の授業 仏教 : 梅原猛

『梅原猛の授業 仏教』 梅原猛

 古くは、岡野玲子『ファンシィダンス』の陽平くんの生き方に憧れ、最近では仏教の実践者としてのみうらじゅん氏の姿に感銘を受け・・・ 「(私を救ってくれるのはきっと)仏教だ」という思いはいつの頃からか頭の中にあるんだけど、あまりに広大すぎてどこからとっつけば良いのか分らず、未だに入口にもたどり着いていない。何かもう一押しきっかけが欲しい、ということで梅原猛氏の授業を・・・。

 古い時代の規範が効力を失いつつあり、新しい規範が未だ立ち上がらない現代において見直されるべき宗教の役割、中でも仏教の思想について。他の宗教や思想との比較、日本における仏教の歴史など。内容としては、以前読んだ河合隼雄氏と中沢新一氏の対話『仏教が好き!』や、末木文美士氏の『日本仏教史―思想史としてのアプローチ』と共通するものだったが、それらが、これ以上ないというくらいに平易に語られていてすんなりと頭に入る。

 多を尊重する仏教の思想は、多様性を含む世界で生きる為の智慧となるはずである。そういう仏教の徳を身につけて、自分を生かし他も生かす自利利他の精神で立派に生きて欲しいという言葉を、梅原氏は授業の最後に生徒たちに贈る。でも、私はまだ自分のことで手一杯で、そんなに立派にはなれないと思う・・・けど、

 『仏というのは客観的に存在するものではない。』

 禅の思想についてのお話の中で語られたこの言葉に、「仏教だ」という思いをぐっと強くする。


 ・・・だからといって、主観的でいいというものでもないのだろうな。客観と主観の皮膜・・・ そんなとこ(もの?)ほんとにあるのか?


  

 

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2011-02-16

女は変身する (ナイトメア叢書 6)

『女は変身する  ナイトメア叢書 6』

 女→異類・異類→女への変身、異性装、整形、少女から大人への成長、娘から妻そして母へ、あるいは王妃・女帝など権力者への社会的枠組みの中での立場の変化による変身、変身によって一時的に特殊な能力を身につけ戦う少女。「女の変身」~その背景、現象、意味、「変身」がもたらすものについて、物語や小説、映画、シェイクスピア劇、歌舞伎、宝塚歌劇、マンガ、アニメを素材に、様々な論考が寄せられている。

 「女の変身」という主題をどのように設定するかという部分に、書き手の興味の在り処や、視点の違いによる幅があり、本書に関して言えば、「女の変身」そのものよりも、「女の変身」に見出される論点の多様性の方が興味深い。




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2011-02-12

女と蛇―表徴の江戸文学誌 : 高田衛

『女と蛇―表徴の江戸文学誌』 高田衛

 古くから教導的な仏教説話に語られ、地獄絵に描かれ、民間に広く流布・定着した「蛇になる女」のイメージ。邪恋や執着のもたらす悲劇的な結末や地獄 ~“恐るべき情念”“穢れ”“邪悪”“怨念”・・・「女」と「蛇」の結合は忌むべきもののシンボルとして人々に記憶される。人々の心の中に刻まれたこのような観念を土壌として、あるいはそれを逆手にとって江戸文芸の中で新たに生命を得、妖しく、残酷な色彩に彩られた絢爛たる華をひらいた「女」と「蛇」の諸相。

 一読して・・・解らない。ちょっと戻って読み返してみても・・・やっぱり論考の主題となる事柄も、著者の言葉の意味も頭の中で上手く整理できない。著者が『雨月物語』の「蛇性の婬」に見た「蛇性」とは何なのか・・・とか、北斎描く「百物語」【しうねん(執念)】の蛇に著者は何を感じたのか・・・ そういうことが私には了解できていないから、その上で著者が語らんとしていることが掴めない。

 いずれ、本書で取り上げられたような江戸の伝奇物語を読んでみようと思う。本書で語られている内容について改めて考えるのはそれからとして、今は、この本を読みながらとりとめもなく思い浮かべたことを雑感として記しておくに止める。

 あまりにも男の側の事情ばかりを反映して作られているように思える仏教説話や地獄絵の中の「蛇になる女」・・・忌むべきものとして否定的に語られる女の姿、その地獄の話を、金を払ってまで熱心に聞いたという女たちの心理とはどういうものなのだろう? また、「蛇になった女」が執拗で残虐な復讐劇を繰り広げる江戸の伝奇物語はなぜそれほど熱狂的に受け入れられたのだろう?

 一切の説得に耳を貸さず、調伏をものともせず、あくまで相手の命が尽きるまでつきまとい、苛みぬく。追われるものにとってはとてつもない恐怖である。そして、そうまでしないと消えない情念の炎に焼かれ続ける蛇体の女の内も地獄。蛇体の女は現代にもいる。我が子を呑込まんばかりに愛する母もその一つの姿。子供にとっては身もすくむばかりの怖ろしさであろう。

 もともとは恋であり、愛であったものがなぜ蛇に姿を変えるのだろう。そうならざるをえなかった、女性たちの置かれた情況があるのだろう。「蛇」とは「怨み」や「執念」ではなく、抑圧された女の生命力の表れなのではないか?



 ところで、「蛇になる女」は怖ろしく忌まわしいだけでなく、歌舞伎や浮世絵に描かれるそれは、悲しく美しくもある。今、私の頭の中にある「蛇になる女」の姿といえば、昨年見た歌舞伎『金幣猿島郡』での亀治郎さん演じる清姫。“禍々しく、あさましい蛇の姿が、なぜこんなに美しいんだろう?”と気にかかった。

道成寺伝説が、いつまでも日本人の心に残るのは、そのグロテスクな異形の愛のおぞましさからではなく、ヒトを異形化させる「愛」という精神の反社会的な本質と、その反面の純粋さ(聖性)という、心の深層を暗示するからである。


 恋しい頼光への思いは報われず、頼光と七綾姫の恋の成就を見せつけられながら、恋敵である七綾姫への不忠者として命を絶たれた清姫。その無念はいかばかりか。  

 本書に『「相愛(あいおもう)」ものの罪障性』ということについて触れられた一節があって、“ふむぅ~”と思う。皆から祝福される清い恋であったとしても、その恋の成就が『他者に対する罪(犯し)の契機』となる。

 そんな罪の犠牲者でもあった清姫の心情には共感できる部分が多いだけに、蛇になってまで頼光を追うその姿は怖ろしいというよりも、むしろ健気で痛々しい。しかし、ここまでされたら蛇にもなるだろうと、清姫が怨みを残して蛇になる理屈が良く解るだけに、逆にその「蛇」となった姿に今ひとつしっくりしないものも感じてしまうのである。「蛇」とはもっと理屈にあわない、理解不能なものなのではないか?


 ・・・思いつくままに書いてみたけど・・・ 感じていることをちっとも言葉にできていない。もどかしい。



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2011-02-09

蛇-日本の蛇信仰 : 吉野裕子

『蛇―日本の蛇信仰』 吉野裕子

 「蛇になる女」の物語の母体となる仏教の思想が日本に定着するよりずっと古い時代、「蛇」は古代日本の信仰の中心であった。仏教説話に語られる「蛇」は否定的なイメージを持っているが、それ以前に日本には仏教的なものとは違う「蛇」の姿があったのかも・・・。

 日本の信仰・祭祀は大陸の陰陽五行思想を色濃く取り入れ、七世紀後半に『一種の宗教改革』とも言える大きな変革を遂げているとした上で、その変革以前の古代日本の信仰の中心に「蛇」がいると著者は論じている。 

 古代日本人を驚嘆させ、畏怖の念を抱かしめたであろう蛇の生態(強靭な生命力を思わせる特異な形状、濃厚な生殖、“生まれ変わり”を連想させる脱皮など)に関する記述から始まり、蛇を指す古語「カカ」への目配りをしつつ、「蛇」に見立てられたもの ~ 植物(形態の類似からの連想)、鏡(=蛇の目)、鏡餅(=とぐろを巻く蛇の姿)、案山子(=山の神、穀物神としての蛇との関連) ~ への言及、そして、各地の民俗、伝承、祭りなどに見つけ出すことのできる「蛇」の姿、そこに込められた思想へと推理・考察が展開される。

 各地に伝わる祭りや奉られるもの ~ その由来、元々の意味が見失われていたもの、事柄について、改めて「蛇」との関連を見出したことは大きな意味のあることだと思うが、一方で、それらのもの、事柄が「蛇」以外のものに由来、関連する可能性について殆ど触れられていない為、多少、論の展開が強引であると感じるところもあった。




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2011-02-05

江戸歌舞伎の怪談と化け物 : 横山泰子

『江戸歌舞伎の怪談と化け物』 横山泰子

 怪異・怨霊・化け物・・・かつては宗教的な事柄や畏怖の感情と結びついていたものたちを、娯楽の対象として消化していった江戸の時代精神、都市文化の諸相を紹介、考察する。エンターテイメントとしての恐怖を生産する現場としての歌舞伎が語りの中心となるので、江戸歌舞伎雑学としても楽しめる。

 江戸の怪談物には“女の化物”“化ける女”の怪が多い。そういうことについて、最近読んだ堤邦彦氏の『女人蛇体―偏愛の江戸怪談史』では、“蛇と化す女”を巡る論考を『恋愛の狂った果実ほどに妖しい魔境はないのだから。』という言葉で締め括れるお気楽さ(「それは男の考え方よ」という娘からのつっこみが付されてはいるが)が少々不快でもあったのだが・・・。

『産女を可能な限り刺激的にグロテスクに、つまり不気味な他者として表現することができるのは、男性ならではの感覚だと私は考える。』


 本書(鶴屋南北の『東海道四谷怪談』とメアリー・シェリーによる同時代の怪奇小説『フランケンシュタイン』の中から「出産」というモチーフを抜き出して比較した章)で語られる“女の化物”についてこのような言葉は、女性からしたら、“そりゃあ、その通り!”なんである。

『女性は男性より執着心が深いから、男性の幽霊より多い、と言われても……。』


 ・・・まったく、、、困ります。

 しかし、江戸時代とは社会の様子も随分と変わった現代、今後また“化ける男”の怪談の台頭はあるのか?


 

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2011-02-02

女人蛇体―偏愛の江戸怪談史 : 堤邦彦

『女人蛇体―偏愛の江戸怪談史』 堤邦彦

 「蛇になる女」の怖ろしく、禍々しく、あさましい姿から、なぜ目が離せないのだろう? 醜いはずのその姿は、なぜ美しくもあるのだろう? 昨年、市川亀治郎演じる歌舞伎『金幣猿島郡』の清姫や、萩旅行の際立ち寄った美術館で芳年の「清姫日高川に蛇体となる図」(本書の表紙にもなっている)を見て以来、気になって仕方がない。

 本書は、『蛇体となる女』の物語の発生と受容ついて、そして、なぜ江戸の文芸には邪恋、嫉妬、怨みの末に蛇体となる女が多く描かれたのかということについての論考。

 『法華経』の説く「竜女成仏」の思想が、布教の現場で民衆の生活実感に沿った説話として語り直され、中世以降の仏教の広がりと大衆化の中で各地の風土、伝承と融合しつつ人々の心象の中に定着し、やがて宗教的な枠を超えて文芸としての「蛇と化す女の物語」が生みだされる。その変貌の軌跡が、少しずつ視点を変えながら繰り返し語られ、そのような「女人蛇体」の物語を生み、受容した江戸の社会、精神に触れていく。

 「蛇になる女」の系譜、変容、受容の歴史がとてもわかりやすく整理され語られているのだが、あとがきに書かれた『恋愛の狂った果実ほどに妖しい魔境はないのだから。』という言葉に何かがっかりする。蛇になるほど恋に狂った女に追われてみたいと・・・そういうことか。なんと気楽な。 




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