2006-09-30

のほほん人間革命 : 大槻ケンヂ

再読です。

 「変わりたい-。『大槻ケンヂ』という、世俗のアカにまみれた希薄な精神を内包する肉塊を、さながらモスラの幼虫が成虫へと変化を遂げるかのように、全く別の存在へと変化させてやりたい。」

 全く異なる存在への変革を目論む大槻ケンヂ氏が、価値観が一変してしまうような体験を通して人間革命を成し遂げようという体験エッセイ。「幻覚サボテンでトリップ」「下着パブでモテモテ」「浮遊カプセルで瞑想」「UFO-形而上の存在との接触」「盗聴」・・・人の存在を変えてしまうほどの衝撃体験! 荒行!をも“行雲流水(のほほん)”と見切ってしまうオーケン。後には何か切ないものが残る。
 
 本書の内容はオーケンが20代後半の頃・・・つまり10年位前のもの。10年前に読んだ時はひたすら面白く、世の中をはすに眺め、俯瞰の目で自分を見つめるオーケンにこっそり共感というか、わが意を得たり!といった気持ちを感じていたと思うのだが、今読むと、オーケンと私はまったく違うということばかりが感じられる。

 オーケンが“のほほん”と言いながらも、あの“困ったな~”という目で体験したことを、私はただ部屋からでることもなく“あはは”と読んだだけなんだ。

 オーケンは当時、そういう読者の為の生贄だったのだな・・・なんていうと大塚英志的すぎるなぁ(苦笑) 

 この文庫の表紙画は石田徹也氏によるもの。先日の「新日曜美術館」で紹介された氏の絵を見て、このエッセイを読み返そうと思ったのです。

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2006-09-28

波の上の甲虫 : いとうせいこう

 南の島で9日間の休暇を過ごす男。島での清々しいバカンスの様子を毎日手紙にしたため、東京の編集者に宛てに送る一方で、“嘘の手紙を書いて送り続ける男”を主人公にした“小説”をノートに綴っている。

 南の島で9日間の休暇を過ごす男。島ですることもなく過ごす毎日をノートに記しながら、“嘘だらけの手紙(紀行文)”を東京の編集者に宛て送っている。

 波の上の甲虫など見たことがありません


 無限(∞)の形を描く島の中で、二つの虚構は混ざり合い、虚構だったものは現実に、現実だったものは虚構に。北は南に、南は北に。

 いとう氏は意地が悪い。読者である私の足を一ところに踏ん張らせてくれない。


 二通りの虚構の世界をあやつる作者の掌でコロコロ転がされる快感。踏ん張るたびにコロッと転がされているうちに、もう一つのフィクションが現れて“あ?”という余韻とともに終わってしまう。夢から覚めたような、覚めきらないような・・・。

 気に入った映画に出会った時はエンドロールが流れ終わってもなかなか立ち上がれないのと同じように、その世界に引き込まれるような読書をした日には、できれば生活の為の雑事からは離れていたい・・・。


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2006-09-23

外科室 : 泉鏡花

「麻酔剤(ねむりぐすり)は譫言を謂うと申すから、それが恐くってなりません。」

 坂東玉三郎監督・吉永小百合主演で映画化され、その宣伝文句にも使われていたこの台詞・・・色んな想像を掻き立てられずにはいられない名文句です。

 決して想いを告げることなく心に秘めて、麻酔なしの手術に臨もうとする美しい伯爵夫人と若き医学士の穢れなく崇高な愛 ~ 映画を見たときは、そんな清らかで静かな・・・、印象に残った色でいうなら外科室のシーツの白のイメージ。伯爵夫人を演じた吉永小百合さんが楚々として、物静かで、控えめな女性に見え、そしてやはり年齢を重ねていらっしゃる分、落ち着きをまとっていらっしゃったので、若い外科医を想う情熱はしっかりと理性で封印されているように見えました。

 一方、小説の方の伯爵夫人は落ち着いた清楚な女性というよりも、まだ若さと華やかな美しさを持った情の強いところも見える女性のようです。口にこそ出さないけれど、その胸の情熱は激しく、妥協するところがありません。イメージする色はメスに裂かれた夫人の胸からあふれ出す血の赤。 一度顔を見交わしただけの男性を9年間もその美しさと情熱でからめとり虜にしているとは、プラトニックな愛どころか、たいした妖婦ではないですか。

 私は気高く美しい吉永小百合主演の「外科室」よりも、色気と死の臭いのする小説「外科室」の方が好きです。

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2006-09-19

ラヴァーズ・キス : 吉田秋生

 鎌倉の県立高校を舞台にした6人の男女の「好き」という気持ちをめぐってのお話。

 「恋愛」というには何か違う、純粋に「好き」という気持ちだけの関係というのは、良くも悪くも小さな自分しか持っていない(言い換えれば自分の外に大きな世界がある)10代の頃ならではのものなのかなぁ。例えば、このお話の中にでてくる少年がこれから高校を卒業し、これまでよりはるかに沢山の人に出会って誰かに恋をしたとして、そして、自分が好きな人が好きなのは自分ではないと気づいたとしたら、高校生の時と同じように静かに綺麗な涙を流すだけで終わるだろうか。

 「好き」の中には未分化のいろんな気持ちが入っている。「憧れ」「恋」「尊敬」「同情」「所有欲」、ほんのちょっと隠し味として「嫉妬」とかも入っているかもしれない。それを「好き」とまとめて出す潔さは年とともに失われてるような気がしてなりません。

 少年・少女の「好き」のお話の裏には、肉親との関わりもちょっと顔を覗かせています。他人とは「好き」でつながり、「嫌い」で拒絶することができる。でも肉親との関係はそうはいかない。一見仲の良さそうな家族を持つ少女がもらす「あたしはあたしの家族が好きだよ でもだからってずっとあそこにいたいとは思わない 家族だからたまらないこともあるんだよ」という言葉には私も身に覚えがあります。親の庇護の下にあるときほどそんな風に思っちゃうんですよね。大人になって物理的に離れることによって、気持ちも親の庇護の下を出て行くのでなんとなく良好な関係を築いていけるようになるのだと思いますが。

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2006-09-13

ふたりだけの秘密―あるいは、自転車・写真機・警報器 : 佐野史郎

 佐野史郎氏の故郷・松江をモデルとしたと思われる町を舞台に、少年・真一の多感な心をゆさぶる数日間の出来事を描く。

 十二年に一度の祭を迎え浮き立つ町の空気、教室のカーテンを大きく膨らませる風、丘の上にある学校からの下り坂を風を切って走っていく自転車、警報器の音、風が含む甘い香り・・・懐かしい風景を薄い紗のかかったスクリーンの向こうに見ているような感覚の小説でした。

 ぽっかりと宙に浮いた語り手の視点から語られる真一の心。その飄々とした語り口が、真一の内のなんともできないもどかしさを程よい生々しさで伝えてくれます。

 進学・恋愛・将来について・・・それなりに沢山の問題と希望を抱えながら、自分を理解し、世間を上手に渡っていくにはまだ無力すぎる少年時代を、愛しむように見つめる・・・。

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2006-09-09

一房の葡萄 : 有島武郎

 小学生の時、「読書シート」なる副読本を与えられておりました。夏目漱石「文鳥」、芥川龍之介「蜘蛛の糸」、新美南吉の童話、O.ヘンリー「最後の一葉」などなど名作短編を1編ずつシートにして綴ったもので、その中の一作品として「一房の葡萄」が入っていました。作中に登場する絵の具や、校舎の壁に蔓を這わせる葡萄の色合いが鮮やかに記憶に焼きついています。

 横浜山の手の学校に通う少年が主人公。絵を描くのが好きな「ぼく」は西洋人のクラスメイトが持つ西洋絵の具の美しさに心を奪われる。あのびっくりするように美しい藍と洋紅の絵の具があれば、いつも見ている海の絵を本物のように描くことができるのに・・・。クラスメイトの目を盗んで絵の具をポケットにおしこむが、まもなく見つかり、「ぼく」の大好きな先生のもとにつれて行かれる。悪い事をしたと泣きじゃくる「ぼく」に、先生は窓の外の蔓から一房の西洋葡萄を取り渡してくれた。

 有島武郎の数少ない童話の中の一つということですが、私は童話というよりも、少年の日の痛みの中にも甘いもののある記憶や憧れを、異国情緒と美しい色彩の中に描いた叙情小説といったふうに感じています。童話という形の中に「悪いことをした時の後悔の念」や「罪を犯した隣人を許す」といったことを子供たちへのメッセージとしておさめているという側面もあるのでしょうが、私はそういった教訓的なことよりもひたすら、美しい色彩の描写に心を奪われました。

 「先生は真白なリンネルの着物につつまれたからだを窓からのび出させて、葡萄の一房をもぎとって、真っ白い左の手の上に粉のふいたむらさき色の房を乗せて、細長い銀色のはさみでまん中からぷつりと二つに切って~」 

 女教師の手の上の宝石のような葡萄・・・切なくなるような、記憶の中の色彩が目の前に見えます。

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2006-09-05

ノリ・メ・タンゲレ~私にふれるな~ : 道原かつみ

 初めて読んだのはキリスト教系の中学校に通っていた頃のこと。SFコミックとして面白かったのはもとより、キリストを素材として取り込んで「神」とは何かというテーマに触れられていることが興味深かった作品です。道原かつみ氏の絵も最近のものより、この当時のごつごつした質感のある絵の方が好き。


 舞台は第三次世界大戦後、西暦を改め銀河暦の時代(思えば西暦というキリストの誕生を基準にした暦を私達も使っているのですよね)。大脳工学の発達により自らの脳を余すところ無く使えるようになった人類は、記憶・分析・計算能力を飛躍的に増大させるとともに、精神活動に革命を起こした。そこでは宗教や「神」の概念は失われている。

 この時代、「脳より分離した意識を一種の波動として過去の人間の脳に送り、その宿主の体と脳を借りて活動する」という形で時間を越える技術が開発され、この航時の技術を使い活動を行う歴史調査局が設けられているが、銀河暦以前の「前時代」に至るには正体不明の「壁」が存在した。

 歴史の流動性を証明するため一人の航時学者が「壁」を越え、イエス・キリストの身体をかりて自らの計画を発動させる。キリストの計画を阻止するため、歴史調査官ヴェアダルはイエスの使徒・ペテロの身体へ・・・。「神」のいない時代の人間が「神」を守るために時間を越える。

 キリストの計画は阻止され・歴史は守られるのだが・・・どのようにヴェアダルが関わろうと、そこはすでに失われてしまっている過去、そしてそこで生きていたのはヴェアダルではないペテロ。それを思うヴェアダルが切ない。私はこういう喪失感にとても弱い。



 このコミックの中で違和感を持った部分が一点。ペテロの身体に入ったヴェアダルが初めてイエスを目にする場面で、「イエス・キリスト 阻止し なおかつ守らねばならない ―― 」と書かれていることなのですが・・・。話の中ではイエス=「神の子」「救世主」と位置づけられているはず。キリスト教の考え方ではどうなのでしたっけ? イエスはあくまでも「神の子」なのか? 神とイコールだと考えても良いのか?


 ま、上の疑問は余談として・・・

 「前時代」には存在し、自分達には失われている「神」について、ヴェアダルは以下のように思い至る。

 精神革命を起こし、膨大な能力をもつ人間の脳のエネルギー…思考を一固体内で完全に処理できるようになったヴェアダルの時代に対し、「前時代」では人の思考エネルギーは常に不完全燃焼し、過剰に溢れている。過剰に溢れたエネルギーが集積され「壁」を形成し、人は固体内で処理しきれなかった思考エネルギーを「壁」に吸収されることで、また「壁」はそのエネルギーを吸収することで互いに安定するという共存関係が成り立っている。そして、その「壁」こそが「神」であると。

 人間の思考というものが、はたしてそういったエネルギー体の性質を持つのかということには素朴な疑問を感じましたが、宗教の授業でシスターから聞くお話よりは、こういう精神の安定を求める人と神のリンクの仕方って「神様」の正体に近い気がして感化されました。「八百万の神々」のようにまた異なった立場(来歴?)を持つ神もいますが・・・。

 タイトルの「ノリ・メ・タンゲレ」は「私に触れてはならない」の意。聖書の中で十字架上での死後、復活したキリストが言う言葉ですが、このコミックのなかで、罪を犯したユダがペテロ(ヴェアダル)に向かって言う言葉としても使われています。それでもユダに触れるヴェアダルですが、触れたのはペテロであってヴェアダルには触れることはできない。そして「神」である「壁」は銀河暦の人間が「前時代」に触れることを拒む。

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