2013-01-19

うつぼ舟1 翁と河勝 : 梅原猛

『うつぼ舟Ⅰ  翁と河勝』 梅原猛

 これも、夢枕獏の『秘帖・源氏物語 翁‐OKINA』からの流れで読んだ1冊。秦氏と「翁」の関わりについて興味がわいて・・・。

 
 うつほ舟に乗り、播磨の国坂越の浦に流れ着き大荒大明神となった秦河勝・・・世阿弥の『風姿花伝』に記された一文に誘われ、梅原猛氏はまたも長い旅に身を投じる。『風姿花伝』や金春禅竹の『明宿集』が猿楽の租であり「翁」であると語る秦河勝の姿を追い、能の根源にあるものを探る旅へ・・・。

 河勝の怨念と、神となった河勝がもたらした繁栄の跡を残す、河勝最期の地・坂越の大避神社の祭『船渡御』。滑稽で猥雑で奇怪な神・摩多羅神が祀られる、河勝ゆかりの寺・広隆寺の奇祭『牛祭』。大避神社、広隆寺に共通してみられる十二という数字へのこだわり。三人の翁が舞う奈良豆比古神社の「翁舞」と、その「翁舞」の起源とされる、業病を患った春日王と二人の皇子・浄人王、秋王の伝承。「白い翁」と「黒い翁」。「翁」=「宿神」であると語る『明宿集』の言葉。「シュク」の意味するもの。談山神社に伝わる「摩多羅神」と呼ばれる翁面。酒・性・笑い・熱狂~摩多羅神に見られるディオニソス的特徴。

  
 「翁」をめぐる梅原氏の旅は、さながら夢枕獏が描いた光の君の神仏をめぐる冒険の如く・・・秦氏や世阿弥、能楽に関する遺跡、伝承の地を訪ね、また文献にあたって集められた、様々な物語を感じさせるこれらのパーツから、梅原氏の目には能という芸能の根源にあるもの、そして秦河勝から世阿弥へとつながる何等かのヴィジョンが幻視されているのであろう。しかし、集められたこれらのパーツに関して、どのような検証がなされたのか充分に示されているとは思えないところもあり、氏が見ているであろうヴィジョンに同調するのが難しい。これは論考として仕上げられたものというよりも、思考のもとになるアイデアを記したノートのようなものなのではないだろうか? 

 それでも、「能と世阿弥に憑かれた」梅原氏は思考が迸るままに書かなければいけなかったのだろう。詳しい検証を後の人たちに託してでも、自分の頭の中にあるものを書き留めておかなくてはいけないとでもいうような切迫感に満ちた書。




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2011-02-19

梅原猛の授業 仏教 : 梅原猛

『梅原猛の授業 仏教』 梅原猛

 古くは、岡野玲子『ファンシィダンス』の陽平くんの生き方に憧れ、最近では仏教の実践者としてのみうらじゅん氏の姿に感銘を受け・・・ 「(私を救ってくれるのはきっと)仏教だ」という思いはいつの頃からか頭の中にあるんだけど、あまりに広大すぎてどこからとっつけば良いのか分らず、未だに入口にもたどり着いていない。何かもう一押しきっかけが欲しい、ということで梅原猛氏の授業を・・・。

 古い時代の規範が効力を失いつつあり、新しい規範が未だ立ち上がらない現代において見直されるべき宗教の役割、中でも仏教の思想について。他の宗教や思想との比較、日本における仏教の歴史など。内容としては、以前読んだ河合隼雄氏と中沢新一氏の対話『仏教が好き!』や、末木文美士氏の『日本仏教史―思想史としてのアプローチ』と共通するものだったが、それらが、これ以上ないというくらいに平易に語られていてすんなりと頭に入る。

 多を尊重する仏教の思想は、多様性を含む世界で生きる為の智慧となるはずである。そういう仏教の徳を身につけて、自分を生かし他も生かす自利利他の精神で立派に生きて欲しいという言葉を、梅原氏は授業の最後に生徒たちに贈る。でも、私はまだ自分のことで手一杯で、そんなに立派にはなれないと思う・・・けど、

 『仏というのは客観的に存在するものではない。』

 禅の思想についてのお話の中で語られたこの言葉に、「仏教だ」という思いをぐっと強くする。


 ・・・だからといって、主観的でいいというものでもないのだろうな。客観と主観の皮膜・・・ そんなとこ(もの?)ほんとにあるのか?


  

 

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2010-03-24

天皇家の“ふるさと”日向をゆく : 梅原猛

 天孫ニニギノミコトの高千穂降臨から、海幸彦・山幸彦の物語、カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)の東征まで、4代にわたる日向神話の地を歩いた旅の記録。

 各地に残る風習や、「記紀」には語られない伝承を聞き、遺跡を訪ね、土地に伝わる祭りや神楽を体験し、天孫族が辿った道すじ、その風景の中に身を置きながら、神話と歴史の接点~そこにあった真実に思いを馳せる。

 海の向こうからやってきた天孫族の旅~いかにして日向の地に根を下ろし、土着の民と融合しながら南九州を支配下に治め、大和へ乗り込むほどの力を蓄えていったのか。神話によって語られた歴史的事実とは何か。直感と検証によって自在で大胆な考察が展開される。

 氏の論文に見るような息詰まるスリリングさとはまた違った、神さびた南九州の風景の中で豊かに翔る氏の思考とイメージがのびやかな旅行記。

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2010-01-09

地獄の思想 : 梅原猛

 日本人の中にある「苦」=「地獄」を見つめる目。仏教によって深く日本人に根付いた、深い内省により地獄を見る精神の在り様、そうしてそのような日本人の精神から生まれた文学、芸術作品を辿る書。

 第一部「地獄の思想」で語られる、日本の仏教における地獄観~特に天台思想は興味深く、もうちょっと深く知りたいという気持ちが起こる。今年は、いくらかでも仏教についての本を読むことを目標にしている。
 
 第二部「地獄の文学」は日本人の地獄を見つめる目から生まれた文芸作品~「地獄の文学」の系譜。

 『源氏物語』の登場人物たちが抱える煩悩の地獄。人の住む世界そのものが地獄の六道巡りと化した『平家物語』。妄執の鬼と化した死霊がこの世に彷徨い出る世阿弥の能。近松の心中物~世間並みの価値観を踏み外し、この世ではもはや生きられない男女の前にぱっくりと口を開く地獄。宇宙に遍く広がる生命を感じながら、その生命の中に地獄を見ずにはいられなかった宮沢賢治。自分の中で分裂する価値観、世界からの疎外感に苦しみ続けた太宰治

 時々歌舞伎を観る私は、どうしても近松の心中物に釈然としない気持ちを抱いていた・・・殊更に美しく描かれる主人公~心中へとひた走るダメ人間たち~に何を感じればよいのか戸惑っていたのだが、近松についての一章は、そんな私に一つの気付きをくれた。彼らは悲劇のヒーロー、ヒロインではなく、この世の落伍者、哀れな地獄の住人であったのだ。純粋な愛にしか価値を見出せない彼らにとって俗世の価値に縛られて生きることは地獄であり、世間に背を向けた彼らの行く先もまた地獄。道行の美しさは、彼らの地獄を見つめる近松の祈りか。


 地獄の文学を生み出してきた人々と同じように、自分の中にも地獄があると梅原氏は語る。自らの地獄を見つめて、宮沢賢治が詩や童話を書いたように、太宰治が小説を書いたように、梅原氏もご自分の中にある地獄のために、この書を書かずにはいられなかったのだろう。

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2009-01-24

水底の歌 - 柿本人麿論 : 梅原猛

 万葉の歌人・柿本人麿 ~ 数々の愛と死の歌を詠み、歌の聖と呼ばれる人麿の最期は、流人としての刑死であった。

 人麿の死前後に残された歌、そして人麿にまつわる伝承には水死のイメージがつきまとう。宮廷歌人として帝の側にあった人麿は、政治的権力を握らんとする藤原氏との軋轢の中で、罪人として流され悲憤の中で死を迎えたのではないか・・・。


 大胆な着想の下、それまでの定説を真っ向から批判する梅原氏の「柿本人麿論」。かつて読んだ井沢元彦氏の「猿丸幻視行」の中で、この「水底の歌」が引かれている部分があり、梅原氏の「人麿水死説」「柿本人麿=柿本サル=猿丸太夫説」については、その当時えらく興奮した記憶がある。その時は興味を持ちながらも、本著作を読むことはなかったのだけど、今回、あるきっかけで遅まきながら読んでみることになった。

 そのきっかけというのが、私が最近ファンになってしまった歌舞伎役者・市川亀治郎と梅原猛氏による「梅原猛「神と仏」対論集 第三巻 神仏のまねき」である。この対論中、新しい歌舞伎に話が及ぶところで、亀治郎から梅原氏への戯曲執筆のおねだりがあるのだが、その戯曲の題材を「水底の歌」にしようという構想が語られており、私としても“これは、読んでおかねば!”となったわけなのだ。

 ところが読み始めてみると、これがもうホントに読むのに体力のいる本で・・・。そのボリュームもさることながら、先人の残した権威ある説といえども、真理ではないと見れば猛然と挑みかかっていく氏の獰猛さにたじろがずにはいられない。それに、梅原氏エキサイトしすぎで、話がちょくちょく横道にそれていくんである。人麿の人物像を把握するためには、かなり広範囲なフィールドを視野に納めて考察する必要があることは解るが、その度に話が脇にそれては何時までたっても前に進みやしない。

 梅原猛ほどの巨人ともなれば、いくら話が脇にそれようとも、頭の中には完璧な全体の俯瞰図が展開されているんだろうが、私なぞでは脳のバッファー不足で、今語られていることの部分図解を頭の中に展開するのが精一杯なんだ。そう度々脇道に入られては折角頭の中に描いた図がブレる。今、何の為に何が語られているのか解らなくなってしまうんだよ!

 只もう・・・「いつか亀治郎が演るかもしれない」・・・それだけをモチベーションに読み終えた。



 第一部「柿本人麿の死」・・・人麿最期の地、鴨山に関する斎藤茂吉の考察「鴨山考」~定説になりつつある茂吉説への違和感・不信感から氏の考察はスタートする。

 人麿最期の地を自ら見つけ出し定めようとする茂吉の怨念めいたものと、その茂吉の怨念を、“真実をゆがめるもの”として告発する梅原氏の対決。あたかも、怪物茂吉と怪物梅原が「ギャオ~ス、ギャオ~ス」と火を吐きあっているかのような緊迫感。

 第二部「柿本人麿の生」・・・怪物茂吉をひとまずねじ伏せた梅原氏は、茂吉を初め後の多くの学者たちの人麿論の方向性を決定付けてしまっている、大いなる権威~江戸時代の国学者・賀茂真淵の人麿論へと挑む。その過程で、宮廷歌人としての人麿と、非業の最期を遂げる流人・人麿の姿があぶりだされていく。

 「万葉集」に採られた歌や、「万葉集」撰集について書かれた「古今集」序文、「続日本紀」など正史に関する記述、数々に伝わる伝承、中世・近世・近代の学者による人麿論 ~ あちこちに散らばる資料を検討しながら考察は進められていくが、史実に関する記録が極端に少ないため、伝承やその他の記述内容をどう解釈するか、または人麿の歌そのものをどう鑑賞するかという部分が鍵にならざるを得ない。

 人麿に向かう其々の学者たちの理性と感性の勝負。俄かには、誰が言っていることが真実に近いのか判断はできない。しかし、膨大な資料を調べ上げ、整合性をチェックするという、クールさを必要をする作業の先に人麿を「見た」という梅原氏の熱狂は、私を圧倒する。

 皇子たちの死を悼む挽歌から覗える帝や政治的権力者たちとの関わり。愛の歌に見える人麿の激しさ、奔放さ。そして、人麿の最期を歌う歌に、また数々の伝承につきまとう水死のイメージ・・・

 人麿を、そして人麿が生きた歴史を「見た」という梅原氏の目を持たない私は、本当のところ氏の熱狂に戸惑いもするのだが、確かに、梅原氏が語ると人麿の歌が妖しく生気を帯びてくるのだ。

 「水底の歌」はしかし、本格的な「人麿論」の準備の書のようだ。ここでの主眼は現代の国文学者達を縛り付けている真淵・茂吉の人麿論への懐疑表明と批判であり、氏の目が「見た」人麿はちらりとしか姿を現していない。人麿の姿が見たければ、次の書を読まねばならないようだが・・・それはまた、気力・体力が充実した時にでも。

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2008-11-22

梅原猛「神と仏」対論集第三巻 神仏のまねき : 梅原猛・市川亀治郎

 師弟と呼べる関係というのは羨ましいものだなぁ、と思う。プライドの高そうな亀治郎が梅原氏を師と慕い敬う様は、ほとんどインプリンティングされたヒヨコのようで、微笑ましいと同時に少し妬けたりする。梅原氏も自分の思想と魂を理解し、継承するに足る、才気溢れる若者の存在が嬉しくてたまらないご様子。

 お二方とも、ご自分の仕事、思想、そして自分自身というものへの自負は相当のもので、隠すことなくその自負を表明する。自分の価値を裏打ちする素養と実績を持った二人の口から発せられる自負の言葉は潔く、気迫に満ちて、しかも清々しい。

 そんなお二人が語り合う、芸能について、劇について~神と交感し神を降ろす芸能の呪力、劇・語りに含まれる仏の思想。

 鋭い理性でコントロールされていながら、“神がかる”~“憑依される”素質も強く持ったお二人の対論は、クールさと熱狂がミックスされてビリビリとする。

 お二人の接点でもあるスーパー歌舞伎・「ヤマトタケル」「オグリ」などについて触れられた部分も多く、そこでやはり気になるのは亀治郎の中にある歌舞伎というものが、どういうものなのか?ということ。このインテリジェンスと憑依体質を併せ持った役者がとらえている歌舞伎の姿ってどんなものなのか?

 その亀治郎が、歌舞伎には新しい理論が必要だと感じているらしい。

 「古い殻を破り、新しい歌舞伎を作る。」という意気込み溢れる言葉を聞くと、歌舞伎が既に持っている宝まで、傷つけるようなことにならないかと、つい不安になって身構えてしまう私だが、亀治郎の中で形作られつつあるもの ~ 新しい理論の下に生み出される歌舞伎 ~ は信じられる気がする。これまでの歌舞伎とは全く違うものでありながら、歌舞伎でしかありえないものが生まれ出てくる~その誕生の場には是非居合わせたいものだ。

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2008-08-20

神々の流竄 : 梅原猛

 出雲神話の舞台は本当に出雲の地であったのか? 出雲は古き神々が流され葬られた「神々の流竄」の地ではないのか? 出雲神話は何を隠しているのか。

 記紀に語られる神話に疑いの目を持つことで見えてくる、古代における宗教的、政治的闘争の跡。用意周到に仕掛けられ隠されたある人物の意図。

 梅原氏はどのようにしてこの着想に到ったのだろうか? 自序には以下のような文がある。 

 私は、日本古代世界について、一人の好奇心にみちた旅人に過ぎなかった。 ~略~ 
 藤原不比等の霊は、たまたまそこに通りかかった、人間と世界にたいするあくことのない好奇心をもち、 ~略~ 孤独で自由な心情にあった私に、千何百年のあいだ隠していた秘密を、ひそかにもらしたように思われた。


 哲学者として、真実に到達するためのストイックで冷徹な態度を持つ梅原氏の文章は、時にとてもロマンティックだ。先に読んだ「隠された十字架―法隆寺論」では、翼を持ったようにのびやかに駆ける氏の想像力に心を掴まれた。

 しかし、この記紀についての論文ではそういう想像力の迸りはまだ陰をひそめているようだ。著者自ら大きな衝撃を受けたにちがいないこの仮説を世に問うため、ひたすらに自説の正当性を、そこに矛盾がないことを証明するため、たたきつけるように提示される証拠の品々。自らの仮説から研ぎ出されたピースが、明らかに一つの絵となっていく様を目の当たりにする興奮のままに筆を走らせたかのような荒削りな迫力。

 氏の論文の文芸的な美しさ、面白さに惹かれる者としては、少しこの論文は荒々しすぎる。しかし、後半、記紀撰修の頃の政治的情勢に着目しながら、記紀が秘める目的、役割をあぶりだしていくあたりで語られる、ダークな色彩を帯びた不比等の超人ぶりは、読み手を魅了するに充分。

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2007-10-03

隠された十字架-法隆寺論 : 梅原猛

 一族を無惨に殺され、子孫の絶えた聖徳太子は強大なたたり神となった。法隆寺は太子の怨霊封じの寺である。
 
 死と舎利のイメージが付きまとう寺。仏像に残された瀆神行為の証拠。・・・大胆な仮説を基に展開される法隆寺論。

 古代史に関する著書の多い梅原猛氏だが、氏は歴史や古代文化の専門の研究者ではない。知を愛する哲学者としての目で真実にたどり着こうとするのが、氏の仕事であるようだ。

 本書でも、氏独自の研究というよりも、ばらばらに存在する各分野での専門家の研究、各種文献を、各々のピースがあるべき場所におさめ、それぞれの事象を結びつけていくという形で氏の法隆寺論が展開されていく。

 現存する歴史上の文献や、先人の研究では埋まらないピースは、氏の洞察力、想像力、創造力で補われていくのだが、その歴史上の人物達の心情、行動にまで想いをめぐらし描いて見せる仮説のドラマは、創作物としてもとても魅力的な小説的、映像的面白さを持っている。

 入鹿による山背大兄皇子、太子一族の虐殺、中大兄・鎌足による入鹿の暗殺・・・そこに見え隠れする中臣-藤原氏の政治的意図。・・・専門的知識に乏しい私には、氏の仮説の一つ一つを検証しながら・・・といった読み方はできない。いきおい、「権力者によって偽造された古代史の闇に迫るミステリ小説的面白さ」にひかれて読むことになる。このミステリとしての面白さは多くの読者を惹き付けるところだろう。

山岸凉子氏の「日出処の天子」は、この「隠された十字架」に刺激を受けて描かれたものだという話を聞いたことがある。有間皇子の悲劇を描いた、清原なつの氏の「飛鳥昔語り」にも、「隠された~」の記述とダブるところが見られ、もしかしたら本書にインスパイアされて生まれたものなのではないかと思う。

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