2010-07-31

まんがの構造―商品・テキスト・現象 : 大塚英志

 発行は1987年。「商品」として生み出される「まんが」が「読者」の欲望に応えながら「現実」を模倣し、拡大していく中で、「読者」の中からはコピー元である「現実」(もしくは「現実」と「まんが」を繋ぐ回路)が失われつつあるということを感じた著者が語り始めた“「まんが」について”。

 「まんが」の製作、流通の現場、また書き手と読者の間で起こっている現象について。「まんが」の世界 ―時間、空間―の、民俗学的見地からの分析、また「まんが」と民俗学的なものの親和性について。「商品」としての「まんが」の現状について。

 ここに収録された数々の文章は、これから大塚氏が「まんが」について語るための準備稿、覚え書きといった風である。

 冒頭、「『読者』である自分が死した後、ぼくは初めて『まんが』について語り出す。」という一文が記されている。

 「まんが」とは“いつか別れを告げるべき愛しいもの”。しかし、幸せな読者として「まんが」に関るだけでは終われなかった氏は、読者としての時間が終わった後も、今や自分にとって正体の掴めないものになりつつある(そして、心のどこかで、正体の掴めないものであって欲しいと願っている)かつての“愛しいもの”について語ることを選ぶのだが、本文の中にはまだ「読者」としての氏の姿もちらつくようで、それは少し痛々しくもある。

 自分が「まんが」について語り始めるのは、その製作の現場に身を置くものとしての「良心」ではなく「悪意」によってであると語る氏の言葉には悲壮な誠意を感じる。

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2008-07-26

物語消費論-「ビックリマン」の神話学- : 大塚英志

物語消費論-「ビックリマン」の神話学- / 大塚英志

 「物」の持つ使用価値を消費し尽した社会にあって、人は「物」の背後にある「物語」を消費し始めた。

 『複製される物語』『消費される物語』『再生する物語』の各章にまとめられた、「物語消費」の周辺を語るエッセイ集。

 ここに収録されたエッセイが発表されたのは、今から20年程前のことで、現在はもう「物語消費」っていう事態を超えているんだろうとは思いながら(「物語消滅論―キャラクター化する『私』、イデオロギー化する『物語』」というのも出てるし)、これを読んでいないことは何だか心残りだったので、今更ながら読んでみた。

  
 人が自分の為の「物語」を求め、創作し、消費していくという事態・・・
 
 「ビックリマンチョコレート」を買い、シールを手にすることで、それが背後に持つ神話的世界にアクセスしようとする子供たちと、お布施を払い教祖の言葉、霊験を得ることで神の世界に触れようとする宗教が、同じ構図を持つこと。

 「死」のイメージに過剰反応する子供たちと、病床の昭和天皇に心を寄せる少女たちについて。

 人気コミックから基本プログラムのみを抜き取り、そのプログラムの下、自分の物語を書き始めてしまった同人少女たちのこと。又、抜き取られた基本プログラム(=世界観)の下、原作コミックとアマチュア作家たちによる二次創作が、「ありうべき物語」として等価となってしまうこと(それぞれの作者の力量の差はあるとしても)。

 ・・・

 そして・・・本書には「少年ジャンプ」について言及した箇所がある。その中に、最近の私の気がかり

『私が夢中になって読んだ「少年ジャンプ」って、私にとって何だったのか? または、「ジャンプ」に夢中だった(今もちょっと夢中な)私って何?』

 という問題に一部ヒットする記述があったので、「さすが大塚先生! ついていきますぅ~」とか、思いそうになってしまった、ちょっとね。

 曰く、

 「少年ジャンプ」の作品は、それまでの<少年まんが>をより単純化して複製したものである。<少年まんが>の本質のみを抜き出し、デフォルメした奇妙な複製である「ジャンプ」作品は、当然のことながらすでに存在した<少年まんが>よりも<少年まんが>的である。


 「ジャンプ」が後発のブランドであるということは、つまりそういうことなのである、と。

 「複製」がオリジナルよりも本物らしいという逆説が成立する周辺事情については、本書の中にちりばめてある。

 「本物」よりも「本物」らしいマンガの「似姿」~私を含め多くのマンガ読者が「サンデー」でも「マガジン」でもなく「ジャンプ」を選んだ理由の一端がここにあるのは間違いないように思われる。

 もう一つ、私が是非見てみたかった数字~一般書店での「週刊少年ジャンプ」購買層の年代別、性別データが載せられているのも嬉しい。載せられているのはあくまで、一書店のある一時期のデータだが、参考にはなると思う。

 「少年ジャンプ」購入者のうち、小学生以下が20.6%、中学生が16.5%、高校・大学・専門学生が22.7%、それ以上の所謂大人が40.2%。男女比では92.8%が男、7.2%が女。

 この本の発行年からして、このデータはちょうど私がど真ん中で「ジャンプ」読者だった頃、そして「翼」「星矢」同人誌華やかなりし頃のものだと思われる。当時の私の位置がほんの少しわかった気がする。

 それにしても、大塚氏がまるごと一冊「ジャンプ」論を書いてくれたなら、私の気がかりはほとんど解決するような気がするのだが・・・。

 大塚氏の書くものは、どうにもこうにも私の嗜好を満足させる、又は抗い難く興味をそそるポイントを突いてくる上に、それが詭弁なのか、屁理屈なのか、それとも鋭い直感と綿密な検証によって裏付けられたものなのか考えさせない程、弁舌鮮やかに語られるので、ついつい私は無批判に、面白く、興奮気味に読み終えてしまうのだ。読む前はいつも警戒心を持って臨んでいるというのに・・・。

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2007-04-11

人身御供論-通過儀礼としての殺人 : 大塚英志

 初出は1994年とある。加筆・訂正の上、「補 <癒し>としてのクマ 移行対象論」を加えて2002年に文庫化。

 ムラ社会に伝えられた民話や、それと同様の構造を持つマンガ・・・「ホットロード」「タッチ」「めぞん一刻」「トーマの心臓」の中から通過儀礼の図式を読み解き、「社会」に参加するための、また個人としての「成熟」のあり方・可能性を考察した評論。

 題材に取り上げられているマンガは、私の世代には馴染み深いもので、私と同世代の人はそれだけで興味をひかれるんじゃないかと思う。

 「通過儀礼」「成熟」ということにこだわり続けておられる大塚氏らしく、考察はとっちらかった印象がありつつも“何とか「成熟」に到るための示唆を与えたい”という熱意にあふれている。この本の先・・・“いかにして「成熟」に到るか”は個々人に委ねられた課題なのだろう。

 文庫版あとがきで著者自身~「人は共同体や国家という大きな物語と同一化しなくともライナスの毛布を抱えていけば他者と折り合い自分の居場所を見出せるのではないか。ただし事が済んだらライナスの毛布はやはりただの薄汚れた毛布であるという事実を静かに受け入れることの必要なのだが」~と本書の趣旨をざっくりと要約されている。

 「ライナスの毛布」とは、弱々しいまま世界に放り出されてしまった赤ん坊である人が現実と折り合っていく際に、共にあり拠り所とも避難場所ともなってくれるモノのことであり、上の言葉に続いて、氏のマンガの原作者としての仕事は『「ライナスの毛布」たり得る物語-読者が他者と折り合うまでの束の間の一瞬のみ愛されやがて捨てられる-』を産むための作業であるとも語られている。

 思春期-“この歌を唄っている人は・・・この小説を、マンガを、詩を書いている人は、きっと誰にも理解されない私のことを知ってくれている”“私にだけは○○の本当の姿が理解できる!”と思わせてくれるものは大概自分にとっての「ライナスの毛布」であるわけだけども、自分にぴったりの「ライナスの毛布」を手にするためには、やはりわずかばかりでも行動と努力が必要で・・・これ!と思える「ライナスの毛布」を手にするというのはそれだけで幸運なことかもしれない。この文庫の発行時からまた数年が経って、今はその毛布すら手にできず(しようとせず)にいる人が大勢いる気がするのだが・・・。


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2006-11-03

物語消滅論―キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」 : 大塚英志

・前近代・近代・現代へと時代が変わる中での物語のあり方、その作者・読者のあり方の変容と、それに付随して「私」というものの認識・実現のされ方の変化。

・「物語」化が進んでいるかに見える現在の世界で危惧されるべきこと、また世界が「物語」化してしまうという事態に対処するためのいくつかの示唆。

 そういったことが大塚氏の視点で噛み砕いて書かれていたのですが、読んでる間中、私の頭は多分この本の主眼ではない“「私」って何だ?”ってところに行ってました。

 “「私」って何だ?” それって私の一番つっこまれたくないところなんですよね~。

 私がその問いに初めて直面させられたのは1980年代のことで、その頃のまわりではやたらと「社会の閉塞感」とか「アイデンティティ」とかいう言葉が使われていました(バブルに浮かれる前の話です)。学校の先生曰く「今の社会は閉塞感に満ちて、子供が将来に明確な希望を持ちにくい。それでもあなた方は確固としたアイデンティティを確立し、将来の展望をもって進んでいかなくてはいけない」。

 他人の価値基準に左右されない「自分」だとか、「達成したい目標」を持ってないのはダメ人間だ!と言われているみたいで怖かったので、とりあえず急拵えの「夢」とか「ビジョン」とかでお茶を濁してみたけど、数年も経たずして“そりゃ違うなぁ”と思うようになり、かといって他に“これが私の生きる道!”と言える様なものも見つからず、何となく“「私」って何だ?”っていう問題は棚上げしたまま?現在に至っています。

 「私」・・・「私」かぁ・・・ いとうせいこうの「ノーライフキング」で子供たちが『賢者の石』に封じ込めたもの「自分の物語」「自分の成分表」・・・ネットに漂う草薙素子・・・ そんなものがぐるぐるぐるぐる・・・

 今のところ、私にとっての「私」はここにある身体と、私の心と身体が好きだと思うこと・嫌いだと思うこと・・・それだけだとしか思えないのだけれど・・・。具体的な夢はないけれども、寿命のぎりぎりまで苦しまずに「好きなことだけして」生きていられたらそれが一番いいなぁ。(でも友人には“それが難しいんだよ”、と苦笑される。)

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2006-07-03

くもはち 偽八雲妖怪記 : 大塚英志

 明治の終わり、売れない怪談作家の「くもはち」と、さらに売れないのっぺら坊の挿絵画家「むじな」のもとには、妖怪がらみの奇妙な事件が次々と舞い込んでくる。夏目漱石、柳田國男、田山花袋ら実在の文学者も登場し、虚実入り乱れて展開する妖怪話を「くもはち」「むじな」のコンビが捌く。

 のっぺらぼうの「むじな」は“顔を無くしてしまう程”世間との関わりも、自分というものの認識も、他人からの関心も薄い人物。世間から消えてしまいそうな、いるのかいないのかも判らないような「むじな」の前に、風変わりな男「くもはち」が突然現れた上、この影の薄い「むじな」を何かにつけ必要とし、引っ張りまわす。

 「むじな」の都合を全く無視したような「くもはち」の行動であるが、当の「むじな」にしてみれば「くもはち」と過ごした日々は『彼の影に隠れる形で程々に世界と関われた』・・・「むじな」なりの世界との蜜月だったようだ。

 してみれば、「くもはち」とは「むじな」にとっての“ライナスの毛布”であり、この物語も、大塚氏がその著作でしばしば語っておられる「通過儀礼の物語」の要素を持っているわけだ。

 しかし、私にとっては物語の内容や通過儀礼云々のことは割りとどうでも良いことで・・・この物語が私の心を捕らえた訳は別のところにある。

 語り手である「むじな」はこの物語を語り始める前に、今は顔を取り戻していること、そして「くもはち」はすでに自分のもとから去ったことを明かしている。「くもはち」を必要とした時間は終わって、今はおそらく「くもはち」が導いてくれた新しい世界にいる。その世界に到る道々、「むじな」が捨てたもの、「むじな」を去ったもの・・・。

 おそらく、新しい世界の中で「むじな」は不幸ではない。ここに来るまでに彼が捨てたものは、捨てるべくして捨てたもの。去ったものは去るべくして去ったもの。今更、過去の日々に戻りたい訳ではない。しかし、かつて共にあった愛しいものを想うときの懐かしさ・・・喪失感にも似た切ない懐かしさが私の心をどうしても捕らえてしまう。

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